文化 ふるさと歴史発見

■第一五一回 新発見!藏内氏胸像
写真(1)は、十月から旧藏内邸で一般公開が始まった伝藏内次郎作胸像(でんくらうちじろさくきょうぞう)(ブロンズ製)です。作者は日本を代表する彫刻家、朝倉文夫(一八八三―一九六四)で、背面署名から大正七年(一九一八)、朝倉三十五歳の時に制作されました。最近まで存在が忘れられていた新発見作品で、京都芸術大学の仲隆裕先生(日本庭園史)が発見し、築上町に寄贈しました。
藏内次郎作(写真(2))は弘化四年(一八四七)に築上町上深野で生まれ、三十歳代後半から筑豊地域で炭坑経営に携わりました。明治四十一年(一九〇八)には衆議院議員に初当選し、連続五期務めました。その間に田川銀行や小倉鉄道(現日田彦山線)設立に貢献し、田川郡の発展に寄与した功績で鎮西原(ちんぜいばる)(田川市伊田)に新設される鎮西公園の一角に朝倉文夫による像高一丈六尺(四・八五メートル)の銅像が建立されました。しかし、銅像は戦時中に金属供出され消失しました。現在は台座のみが残り、戦没者慰霊碑となっています。
さて、鎮西公園の銅像を制作した際の習作が今回発見された胸像の可能性があります。朝倉彫塑館(ちょうそかん)(東京都台東区)発行の作品目録には、大正八年(一九一九)に藏内次郎作銅像とともに藏内着炭(ちゃくたん)氏胸像が作られたと書かれ、後者が今回の作品の可能性が高いと考えられます。着炭は藏内次郎作のニックネームです。炭坑経営者であった藏内次郎作は、着炭代議士と呼ばれていました。なお、目録には大正八年とあり、署名と一年誤差がありますが、ブロンズ作品は原型制作し鋳造(ちゅうぞう)を行うため、作品完成日と署名に誤差が生じることが多々あります。
ところで、胸像は当時七十一歳の次郎作にしては若すぎる感じがします。調査した日本大学の田中修二先生(近現代日本美術史)は当初、次郎作の孫で当時二十六歳の次郎兵衛(じろべえ)(写真(3))がモデルと推定しました。しかし、当時は次郎作の子、保房(やすふさ)(一八六三―一九二一)が中心的存在で、保房を飛び越しその子、次郎兵衛の胸像を作るとは考えにくいこと、朝倉が対象を直に見ながら創作するスタイルを基本とすることから、次郎兵衛をモデルに次郎作の若い頃を表現したのではないかと考えました。
岩崎高藏編一九二四年『藏内次郎作翁餘影(おうよえい)』にはお茶目な一面を持ち、孫の次郎兵衛を溺愛する次郎作の姿が描かれます。胸像を見ていると、「習作を制作するなら、自分の若い頃の姿を残したい。そうだ。孫の次郎兵衛の顔形が自分の若い頃によく似ているから、次郎兵衛をモデルに作ればよい」……鎮西公園の銅像を作る際の藏内次郎作(七十一歳)と朝倉文夫(三十五歳)のそんなやりとりが聞こえてくるようです。皆さんもぜひ直に作品をご覧ください。何か聞こえてくるかもしれませんよ。
(文化財保護係 馬場克幸)
※写真については本紙をご覧ください。