- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県指宿市
- 広報紙名 : 広報いぶすき 2025年12月号
■『刻地蔵(きざみじぞう)』にまつわる伝説と清見城
市指定文化財である刻地蔵には、次のような言い伝えが残されています。
応永(おうえい)27年(1420)12月29日、池田信濃守(しなののかみ)が城主を務める清見城(きよみじょう)が、知覧の武将・佐多親久(さたちかひさ)に攻められた。落城寸前、信濃守は家老の息子に、夫人と姫を連れて城を脱出させた。姫たちは洞窟に身を隠したが、城が焼け落ちるのを見て、死者の霊を弔うため、仏像を彫り、完成すると餓死した。このため、刻地蔵は「餓死(ひじん)が御前(ごぜん)」とも呼ばれている。
今から605年前の12月末に起こったこの出来事の舞台となった清見城は、池田の清見岳頂上付近にあったとされますが、その詳細はいまだ分かっていません。
■山城とは
清見城のように、山の頂上や尾根、中腹に築かれた中世の城郭(じょうかく)のことを「山城(やまじろ)」といいます。山城は、自然の丘を台形状に造成した複数の「曲輪(くるわ)」からできています。曲輪の頂上には、簡易で質素な建物が建てられていたとされます。石垣や天守閣がないのも特徴です。
また、防御性が高いため、戦の時に領民が逃げ込み、城内に長期間居住した点が、江戸時代の城と大きく異なる特徴です。山城は全国各地に数万カ所も築かれましたが、江戸時代の一国一城令で、大部分が廃止されました。鹿児島では、その後も管理され続けたところが異なっています。なお、幕末の地誌『三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)』には、指宿市内には9カ所の山城があったことが記されています。
■指宿城跡(松尾城跡)
指宿の山城で最も規模が大きく、政治的中心であったのが『指宿城(松尾城)』です。指宿城跡は面積が15ヘクタール以上あり、13カ所の曲輪が確認されています。
曲輪には「土塁(どるい)(土の壁)」をめぐらし、水がない堀である「空堀(からぼり)」で周りを囲い守っていました。また、松尾崎神社が置かれた曲輪の東側斜面には、弓矢で敵を攻撃する施設である「武者走(むしゃばしり)」があり、西側には兵士が集結する広場である「武者揃(むしゃそろい)」がありました。城の中心の「本丸(ほんまる)」は、神社の西側の曲輪だったことが判明しています。
■山城の現地調査で新たな発見!
中小路の原田城跡は、指宿氏の分家である原田氏の居城とされ、金毘羅(こんぴら)神社の社殿がある丘が城跡とされてきました。ところが、近年の専門家による調査によって、神社の西側の50mほど高い山間部に、城の本体が所在することが発見されました。原田城跡の詳細は今後の現地調査で、さらに明らかになるでしょう。
■山城調査に協力をお願いします
昭和60年刊行の『指宿市誌』は、山城を巡る歴史に関しての記述が少なかったため、今回の市史ではその詳細に触れるべく、山城の現地調査を実施する計画です。私有地への立ち入りなどについて皆さまのご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
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問合せ:総務課市史編さん室
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