文化 いぶすきまるごと博物館 vol.217

■-黄色い墓石がつないだ薩摩・奄美・琉球-(正龍寺(しょうりゅうじ)跡編)
令和7年度の企画展では、山川福元の海雲山正龍寺跡を紹介しています。
正龍寺の創建は不詳ですが、明徳(めいとく)元年(1390)に京都五山南禅寺(なんぜんじ)の虎森和尚(こしんおしょう)が再建したと伝わります。虎森和尚は留学の船を待つ間、島津宗家の菩提寺福昌寺(ぼだいじふくしょうじ)を興した石屋真梁(せきおくしんりょう)の働きで正龍寺を建立し、住持(じゅうじ)として迎えられたとされます。正龍寺は琉球貿易の玄関口であった山川港の管理を行い、学問的水準の高さから「薩摩文教(さつまぶんきょう)の府」とも呼ばれました。
正龍寺は明治2年(1869)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺(はいじ)となり、同22年(1889)には東本願寺の説教所が境内に創設され、明治43年(1910)に現在地へ移りました。旧正龍寺の仁王像は山川石製で、現正門に安置されています。
寺域の復元は難しく、倒木・草木で墓地の実態は不明な部分が多かったですが、令和5年度から福元区と教育委員会の合同清掃で状況が次第に判明してきました。現存する近世・近代墓は500基を超え、多くが山川石製です。大型の墓が目立ち、特に海運業を営んだ海商(かいしょう)やその親族が多いことが分かりました。河野家は五輪塔(ごりんとう)、佐々木家は宝篋印塔(ほうきょういんとう)を代々用い、家を意識した配置とサイズの統一が見られます。佐々木家の宝篋印塔は総高約2m40cmで、今和泉島津家初代忠卿(たださと)の宝篋印塔とほぼ同じ高さです。
考古学的な調査は未実施のため資料の把握にとどまり、今後は墓地の測量・墓石の計測・被葬者データの蓄積を含む本格調査が必要となるでしょう。

問合せ:生涯学習課文化財係