- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県西原町
- 広報紙名 : 広報にしはら 2025年12月号 No.646
沖縄戦の終戦から80年を迎えた今日、戦争体験者の減少、戦後世代の増加と相まって、戦争の歴史的教訓が年々風化し、その悲惨さが忘れ去られようとしています。
西原町は、戦争体験者の方々からの貴重な体験談を紹介し、次世代へ継承していきます。
■足をひきずりながらの避難
(西原町史 第三巻 資料編二 西原の戦時記録より)
糸数(いとかず)トミ(当時29歳)主婦
夫が召集されて八重山(やえやま)に行ったので、私は子ども2人と両親を連れて首里(しゅり)の墓の中にしばらく避難した。戦争が激しくなったので、友寄(ともし)・山川(やまかわ)に行き壕に入っていた。6歳になる子どもが壕から出ると言って、泣くものだから、姑、義妹が子どもをいやがった。その壕を出ると同時に銃撃され、私はケガをした。自分でケガの手当をしようとすると、近くに兵隊がいたので傷口を巻く布をもらい、自分で足を巻いて真栄平(まえひら)に行った。
そこで実の母親と6歳になる子どもがあっというまに爆弾で殺された。父と一緒にそこから逃げた。
父が防衛隊に水などをあげて助けてやった。その防衛隊がここは砲撃が激しいから一緒に逃げようと言ったので、一緒に逃げているうちに父と別々になった。父は真栄平で死亡した。私は足にケガをしていたが、父に助けられた防衛隊員が少し食糧を分けてくれたので助かった。
しかし、逃げるときは足をひきずっていたので非常に苦しかった。足の傷には蛆(うじ)が湧いていた。
ギーザバンタで敵軍が「手を上げて出て来い」と言っているのに防衛隊の若い人は手を上げなかったため、敵軍5、6人に銃殺された。私たちは、その敵軍の言うことを聞いて手を上げ、出て行ったので捕虜となった。その後、百名(ひゃくな)、志喜屋(しきや)を経て棚原(たなばる)に帰った。
「西原町史」は西原町立図書館でご覧いただけます。
