- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県西原町
- 広報紙名 : 広報にしはら 2025年5月号 No.639
内間御殿(うちまどぅん)から首里城までのかつてのルートの一部である現在の西原町字池田から首里弁ヶ嶽(しゅりべんがだけ)への道筋にあたる約600メートルほどの急勾配の傾斜地に「トーフグヮービラ」という坂道があったというのはご存じでしょうか。
『南島風土記(なんとうふどき)』には、「瑞慶村阪(づけむらびら)瓣(べん)の嶽(たき)から西原村の安室桃原に至る阪路(はんろ)。方音「ヂキンダビラ」、訛(か)して「ヂチンタビラ」と唱へ、俗には「豆腐小阪」と稱(しょう)する。」とあります。
ヂチンタビラ(トーフグヮービラ「豆腐小坂」)は、かつて中城間切渡口村(なかぐすくまぎりとぐちむら)から首里までの旧街道にあたるウチャタイミチ(御茶多理道)の一部で、幅三間(さんけん)ほどの急勾配の坂道のことをいいます。
1853年(嘉永(かえい)6年)5月30日、ペリー提督の派遣する探検隊が沖縄本島の奥地探検に出発した際、その1日目に通った道もまさにこの道で、一行(いっこう)は午前10時ごろ那覇に上陸し、弁ヶ嶽(べんがだけ)を経て、夕方には小橋川の上(イー)ヌ松尾(マチュー)で野営しました。後にペリー提督沖縄訪問記では、「下方に通ずる粘土多い道は、非常に湿っていて滑り易く、苦力共(クーリー)は、荷物を担いで、数回も倒れてころんだ。」と記されています。
また、1881年(明治14年)11月14日、上杉県令(うえすぎけんれい)※一行が西原間切番所を訪れた際の記録に「豆腐小坂ヲ下ル、七折九回、羊腸ノ如シ、嶮峻(けんしゅん)尤甚タシ」とあり、膝まで泥につかりながら羊腸のように曲がりくねった坂道を下ってきたようです。昔、西原の人々がいかに苦労して首里へ上(のぼ)ったかが窺(うかが)えます。
トーフグヮービラの土質はクチャ(泥岩)からなり、まるで豆腐を小さく角切りしたように亀裂が生じていることから、トーフグヮービラと名付けられるようになりました。
1903年(明治36年)ごろにその坂道の迂回路として「花房曲り」が開通するまでは、首里の鳥堀(とりほり)・赤田(あかた)・崎山(さきやま)へ上る道路の一つとして、西原の海側集落の人々や中城村の伊集(いじゅ)・津覇(つは)・和宇慶(わうけ)方面の人々が首里の汀志良次(ティシラジ)マチ(市場)へ野菜や魚、塩などを売りに行くために利用していました。
現在のトーフグヮービラは、1984年(昭和59年)の沖縄自動車道の開通に伴い一部が分断され、残念ながら通行出来なくなっています。
※上杉県令とは、明治から大正期の日本の政治家である上杉茂憲(うえすぎもちのり)。沖縄県令は現在の沖縄県知事のことで、上杉茂憲は明治一四年五月一八日付で任命された第二代沖縄県令であった。
※参考文献
「西原町史第四巻資料編三西原の民俗」「ペリー提督 沖縄訪問記」
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