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≪特集≫それぞれの戦争(1)

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大分県九重町

今年は、戦争が終わって79年です。かつての戦争は、教科書や資料でしか触れることのない過去の出来事のように思えます。しかし、その影には一人ひとりの生々しい体験が刻まれています。
私たちの町にも、戦火をくぐり抜けた方々が今も暮らしており、その記憶は貴重な歴史です。今回は、そんな戦争を経験した方々の声をお届けします。
それぞれの体験談には、戦争の真実と共に、私たちが決して忘れてはならない教訓が込められています。
これら証言を通じて、戦争の悲惨さと平和の尊さを再認識し、未来に向けて平和の大切さを次世代に伝える一助となることを願っています。
どうぞ、一人ひとりの体験談に耳を傾け、その中にある思いを感じ取ってください。

◆中谷記代亘さん
昭和18(一九四三)年、戦況が悪化する中、兵力不足から大学生が学業を中断して兵役に就くことになりました。「学徒出陣(がくとしゅつじん)」です。その一部は「特攻隊」として飛行機ごと敵艦に体当たりして亡くなっていきました。
今年101歳を迎える中谷記代亘(きよのぶ)さんも「学徒出陣」として戦争へ駆り出された一人でした。当時21歳。大分師範学校の卒業を半年繰り上げ、茨城県にある土浦海軍航空隊に配属したのが昭和19(一九四四)年10月でした。
学徒出陣の命令を受けたとき、中谷さんは「よし!」と思ったそうです。日本中が戦争一色の中、「不安とかはありませんでした。使命感だけでした。死ぬ覚悟もありました」。
土浦海軍航空隊では、基礎訓練を受けましたが、近くの霞ヶ浦海軍航空隊では、特攻隊養成のための実践訓練が行われていました。中谷さんもその中の一人になる可能性がありました。
「もう1年戦争が長引いていたら、特攻隊になっていたかもしれません」
ただ、沖縄への米軍上陸を耳にしたり、相次ぐ空襲や、戦闘機の不足などを見るにつけ、戦争に勝てそうにないことは薄々感じていました。

配属時、とくに印象に残っているのが、昭和20年6月10日の土浦への大空襲です。この日、土浦海軍航空隊とその周辺が米軍のB29爆撃機による大規模な空襲を受け、370人を超える人が亡くなりました。
「その日は、日曜日でした。初めての外出で、軍服も新調して出かけようとしたとき、空襲警報が鳴り始めました。すると、米軍のB29の大編隊が飛来し、近くの予科練(海軍飛行予科練習部)が被害を受けました。いたるところで火の手や煙が上がる中、兵舎と兵舎の間にある塹壕に飛び込んで、どうにか助かることができました」
亡くなった人の中には、中谷さんと一緒の班(22人)で訓練をしていた仲間も含まれていました。
「同じ班の仲間一人が行方不明ということで、付近を探し回りました。病院には、担架代わりのトタンに載せた病人や死体が何体も並んでいました。その中を歩いているとき、負傷し、息も絶え絶えの一人の予科練生が震える手で家族の写真を差し出すのですね。その予科練生も亡くなったと思います」。
探していた仲間も遺体として見つかりました。
「道端にトタンに載せられていました。足の骨が出ていて、見るも無残な姿でした」

その2か月後。日本は終戦を迎えます。
「8月15日。その日は、とてもいい天気でした。佐世保への赴任を命ぜられて軍用列車に乗っていたのですが、普段は米軍の艦載機を見かけることが多いのに、この日は何もなく、不思議に思っていました。京都駅に着いたのが昼過ぎで、そのとき、人づてにどうやら戦争に負けたらしいというのを聞きました。だから、玉音放送は直接聞いていません。とっさに思ったのが『そんなことあるもんか!』でした。そこで、次の大阪には海軍基地があるので、確認してみようということになり、聞いたらやっぱり戦争が終わったということでした」
途中、原爆直後の、広島も通過したが、その記憶はないそう。それほど敗戦の衝撃は大きかったようです。
「分隊を任されていたので、次の任地にいくことで頭がいっぱいというのもありました」
終戦直後は、志佐(長崎県)に配属され、そこにいた230人を故郷に返すのに奔走。敗戦を受け入れるのにもしばらく時間がかかりました。
「あるとき、40代くらいの兵隊が、食事の時急に立ち上がり『敗戦で終わりでいいのか!』と言ったのを覚えています」
みんな敗戦を受け入れるのに、必死に戦っていました。
除隊後、中谷さんは故郷に戻り、昭和20年11月に淮園小学校に赴任。以後、教師を続けてきた。
「子どもたちには戦争の悲惨さをずっと伝え続けてきました。私自身の反省でもあるのですが、社会の刷り込みの恐ろしさを感じています。小さいころ、日清戦争などがあり、戦争ごっこをよくしていました。そのとき、中国人などを差別的な言葉で呼んでいました。また、私たちは、国際情勢を知らな過ぎた。学生時代、統計的に日本はやがて戦争に負けるといった教授がいましたが、すぐに特高警察に引っ張られていきました。今でも、戦争を称賛するような人がいるが、戦争は本当に残酷なものです。戦争は絶対にダメです」

先述のように、もう少し戦争が長引いていたら、中谷さんは特攻隊になっていたかもしれません。特攻隊そのものは、非常に気の毒なことと感じる一方で感謝の思いもあるといいます。
航空隊在籍時、中谷さんは、これから特攻の任務につく人と話をすることもありました。その人は、晴れやかな表情で、そして諭すように、中谷さんへこう言い残しました。
「君たちに後を頼む。がんばれよ」と。
その言葉は、今も心に深く刻まれています。
中谷さんにとっての戦争は過去の出来事ではありません。

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