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安芸高田歴史紀行

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広島県安芸高田市

■[毛利元就入城500年記念]大江広元と安芸毛利氏 その5 元就の郡山城入城
今から500年前の8月10日(旧暦)、毛利元就は郡山城に入城しました。この時、既に27歳。
そもそも元就はなぜ郡山城に入ったのか、皆さんご存じでしょうか?
歴史民俗博物館 副館長 秋本 哲治

◇名が語る元就の立場
今では毛利元就といえば、戦国大名として広く知られていますが、本来は毛利氏当主となるはずではありませんでした。
1497年に毛利弘元の次男として誕生し、幼名は松寿丸といいました。間もなく長男であった幸千代丸(興元(おきもと))を郡山城に残して、弘元は正室と松寿丸を連れて郡山城から4km西の猿掛城(当時は多治比城)へ移りました。これは、弘元が形式的に隠居したことを示す狙いであったといわれます。その後、母と父の相次ぐ早世により、家臣に所領を奪われるなど松寿丸は非常に厳しい生活を強いられましたが、継母「大方殿」に育てられて成長しました。
1511年、元服して兄の興元から「元」を与えられ、「元就」を名乗ります。毛利家では元就の曽祖父「煕元(ひろもと)」以来、当主には「元」が実名(じつみょう)の下につきました。上に「元」がつく「元就」の名は彼が本来当主となる立場ではなかったことを物語っています。

◇「脇柱」が「大黒柱」に
1516年、元就にとって唯一の頼れる肉親であった兄興元が急死します。元就は死因を酒害と記しており、「祖父も父も兄も酒で早世したが自分は下戸で長生きをした」と後に語っています。
その後を継いだのは、子の幸松丸。しかし、1523年7月15日、わずか9歳で病死してしまいます。幸松丸の早世により結果的に多治比の叔父元就が家督を相続し、満願寺住職の占いにより、8月10日(新暦9月19日)に郡山城への入城が決まりました(つまり、今年は元就の入城に加え、幸松丸の没後500年でもあります)。
この時、元就が詠んだ句が「毛利の家わしの羽を次(継ぐ)わき柱」。本来「脇柱」だった元就は大黒柱となったのです。

・安芸毛利氏略系図

◇「早起き会」はいつから
吉田小学校では、毎年8月10日早朝に郡山城山麓の毛利元就墓所に集まり、ラジオ体操を行う「早起き会」が長年開催されてきました。これは夏休みの中間に、地区ごとに歩いて毛利元就墓所へ向かうもので、元就の郡山城入城に由来する行事です。記録上では、なんと1924(大正13)年からほぼ100年にわたり実施されています。なお、現在では小学6年生の行事として午前中に実施されています。

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