■魚島漁民の韓国出漁
画像は、魚島に伝わっている絵図「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」です。魚島の港から24隻の出漁船が韓国へ向かって出発している場面が描かれています。浜から手を振る人や、船上から手を振り返す人なども描かれています。絵図が描かれた明治40年(1907年)ごろは、鯛網漁と韓国出漁の2本柱で、島が最も活気づいていたといわれています。
明治16年(1883)、日朝貿易規則が締結されたことにより、韓国水域への出漁が正式に認められました。また、出漁する漁民に対して補助を行う遠洋漁業奨励補助法が明治30年(1897)に公布されました。朝鮮半島への出漁は、明治の終わりで2府23県、船舶6,000隻、人員20,000人に及んだとされています。魚島の韓国出漁は、明治24年(1891)に横井庄平がイワシ網を行うために韓国の巨済島(コジェド)に出漁したのが始まりとされています。巨済島の旧助羅(クジョラ)がカタクチイワシの宝庫であることに目を付けた魚島の漁民は、この地を漁業の根拠地としました。獲ったイワシは現地で煮干して加工し、仲買人を通じて下関に出荷されました。
出漁が盛んになると「魚島組」という会社が設立されたり、現地に「小魚島村」という集落ができたりもしました。漁期間は10か月で、その間は船上でひたすら魚を追いかける毎日であったといわれています。陸上に上がるのは、魚島に帰ることができる12月末から約1か月間の休漁期間だけでした。
※詳細は本紙をご覧ください。
担当:生涯教育課 曽根大地
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