■弓削島の田畠
文治4年(1188年)から翌5年にかけて行われた、弓削島荘における田畠の検注(土地の現地調査)の記録によると、田地は3町3反180歩、畠地は26町3反180歩の面積があったようです(1町は野球グラウンド1つ分くらいでしょうか)。島の人々は自分たちの荘園について「狭少最薄之地」や「最亡狭少之地」と表現しており、年貢の減額を求めるなどしました。平地の少ない島の中で、田んぼや耕作地を確保することは、きっと大変なことだったと思います。
中世弓削島の水田は、応長元年(1311年)の記録によると、太田・引野・久司浦・田林・沢津・日比・鎌田・楡田・鶴浜・明神・狩尾に存在したようです。その中でも、太田には1町余りほどの比較的大きな面積の水田があるなど、島の西側に水田が存在しました。畠地は、島の全体に分布していましたが、急峻な斜面で平地が少なく水田や塩田を造成することができない島の東側(大谷・津原免・藤谷)にも多く存在していたようです。
現在、水田があった場所は畑や公共施設となっており、限りある島の貴重な平地として活用されています。また、久司浦地区の鯨池や、下弓削地区の深坂池など、水田に付属したため池の存在からも、当時の景観を伺うことができます。
担当:生涯学習課 曽根大地
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