■謎が多く残る剣士 佐々木小次郎と添田町
残された史料が少なく、生まれた年や場所など不明な点が数多くあり、謎に包まれた人物として知られる佐々木小次郎。今回の歴まちコラムでは佐々木小次郎と添田町の関わりについて紹介します。
巌流島において宮本武蔵と対決したことで有名な佐々木小次郎。その生誕地について近年、添田説が唱えられるようになりました。
添田を含めた豊前地域を治めていた小倉藩主の細川忠興(ただおき)は、地域の治安を守るため、地元の有力者を積極的に取り立てる政策をとっており、兵法指南役として小次郎を迎え入れています。当時、豊前地域で佐々木姓を名乗るのは、添田の岩石城を守っていた佐々木氏のみであったことから小次郎と添田が結び付き、添田説が主張されるようになったものです。
小次郎は「岩流」とも名乗っています。これは武蔵の養子である伊織が養父の功績を称えるために建立した石碑のなかで刻まれた名前です。佐々木氏は英彦山山伏の出身という言い伝えがあり、英彦山修験道において修行の場の一つである岩石山を守っていたことから、岩石山で剣術の修行を積んだ小次郎が、岩石山の「岩」の字を用い「岩流」と名乗ったとのではないかとの推測も添田説を後押しするものとなっています。ただ、小次郎の佐々木姓について若干の疑問が残されており、古い史料には「小次郎」「岩流」としか記録されておらず、小次郎の姓が〝佐々木〞小次郎として確認できるのは、小次郎の死後約160年たった安永5(1776)年に書かれた武蔵の伝記書『二天記(にてんき)』です。これによって小次郎の姓が佐々木に定着されたことにより添田との結び付きを主張できる状況が整ったと言えるでしょう。
真相は定かではありませんが、限られた史料を繋ぎ合わせていくなかで、謎に包まれた佐々木小次郎と添田の関係性が見えてきたのではないでしょうか。今後も史料を注意深く読み解くことで、新たな根拠が示され、添田説が確かなものとなっていくでしょう。
[文・西山紘二学芸員(商工観光振興課歴史文化財係)]
[参考文献]
『彦山・岩石城と佐々木小次郎(上)』梶谷敏明(平成20年)
『彦山・岩石城と佐々木小次郎(下)』梶谷敏明(平成21年)
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