日米和親条約を締結し、日本開国の扉を開いたのはペリーでしたが、経済としての開国「世界市場に日本を開放」したのがハリスでした。
◆ハリスの来日
ペリーの和親条約は、米国船への薪水、石炭、食糧の提供を約束したもので、貿易事項は含まれていませんでした。それを補い、日本と貿易を開始するために派遣されたのがハリスでした。1856年(安政3)8月に来日したハリスは、柿崎玉泉寺を総領事館として粘り強く幕府と交渉を重ねました。1858年(安政5)7月、日米修好通商条約が締結されると、外国人が日本で商売ができる貿易港として横浜や神戸が開港されることとなりました。
ハリスの日本滞在は5年9か月に及び、麻布の公使館に移るまでの2年9か月余を下田を拠点に活動しました。
◆ハリス日本滞在記
ペリーは、総勢千人もの隊員を伴って来航しましたが、ハリスに随行したのは通訳ヒュースケンと数人の召使だけでした。条約交渉に積極的なハリスに対し、幕府は消極的でした。彼は孤独と苛立ち、心労からしばしば体調を崩しました。そんな中、彼の心を慰めたのが下田の美しい風景でした。
ハリスの日記『日本滞在記』には、彼が下田のあちこちを散策していたことが記されています。
「風景は変化に富み、うっとりするほど美しい。険しい山があるが、忍耐強い労働により、できる限りの場所が開墾され、段々畑となり様々な作物が栽培されている。肥沃な田畑の向うに青い海が断続的に見える景色は、有能な芸術家の筆に匹敵する。」と下田の風景を評しました。
日記には、森の中で一株の矢車菊を見つけ、故郷を思い出したこと。カナリアを飼い、畑を借りて馬鈴薯を栽培したこと。役人から貰った猪肉や鹿肉がとても美味しかったこと等々が記載され、下田での生活の様子が伝わってきます。
ハリスが記録した下田の風景は、170年の時を経て、今でも私たちの日常を彩っています。交渉や交流の歴史だけでなく、彼の疲れた心を癒し、日本風土の理解にもつながった美しい海や山の風景も、開国のまち下田の大切な財産と未来に伝えたいものです。
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