- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道岩見沢市
- 広報紙名 : 広報いわみざわ 2026年1月号
日本の終戦から80年が経過しました。戦時から現在までの間、私たちの暮らしに大きく影響を与えた出来事などを歴史資料などから振り返ります。
■第10回 忘れられたシルクロード
石狩川流域に稲作が広まるまでの間、入植者は自給食糧の生産のほか、自生する桑を利用して蚕(かいこ)を飼育しその繭(まゆ)から絹糸を生産する養蚕(ようさん)に取り組みました。北海道庁も養蚕を奨励し、明治22年に札幌蚕種(さんしゅ)伝習所を開設しました。明治36年、生糸会社大手の片倉組が岩見沢支店を開設し、北村に片倉農場を開きました。農場の管理人になった小木曽文太郎(おぎそぶんたろう)が養蚕に取り組み、北海道蚕糸会の第1回品評会が岩見沢尋常高等小学校で開催されるなど、養蚕が奨励されるようになりました。さらに明治37年ごろからは、空知管内でこどもたちの労作(ろうさく)教育に養蚕を取り入れる学校が49校を数え、栗沢村では明治40年に飼育戸数が410戸になるなど、空知管内の養蚕熱が高まり、岩見沢町農会は空知蚕種検査所から山村岩太郎を技術員として迎え、蚕種改良に取り組みました。しかし、春蚕(しゅんさん)を出荷する梅雨の季節の悪路と化した道路では、荷造りが頑丈であっても輸送中に4割程度が腐敗してしまいました。そこで片倉組は、石炭輸送の鉄道網が整っていた岩見沢を拠点に、鉄道と船を使って信州などの製糸工場に繭を輸送するシルクロードを開通させました。これにより良質な春蚕の最盛期が本州に比べて遅い北海道は、全国展開する大手の買い入れ先となりました。
大正3年7月の機関紙によると、明治政府からの奨励策や片倉組など大手資本の進出により、岩見沢町の蚕の飼育数量は前年から倍増し、機織・染色などを教える目的で開校した町立女子職業学校には専修科が拡充されました。日本は世界一の生糸輸出国に躍進しますが、冷害や病害に加えて取引価格の変動などから道内では蚕糸の生産が伸び悩み、片倉組岩見沢支店は昭和2年に廃止され、片倉農場も昭和15年に小作人に開放されました。同年、片倉組の事業を継承した片倉製糸紡績が発行した記念誌には、岩見沢支店や片倉農場の記載はなく、養蚕の歩みは忘れられてしまいました。戦時下には食糧増産の号令が掛かり、桑畑は荒廃しましたが、学校では労作教育の一環として、また農家や商家の一部では自家用として戦後まで蚕の飼育が続けられました。
問合先:総務課市史資料室(北村支所内)
【電話】56-2001
