文化 余市町でおこったこんな話

余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。

~その248~『栄小学校』

「弁当は麦めしをもっていったり、かぼちゃ、じゃがいも、などをもっていくが、風呂敷で腰にくくりつけてさわいで歩くので途中で落として学校につく頃にはひとつもなくなり結局食べられなくなったこともありました。」
地区の古老が語られた栄小学校の思い出です。大正時代のことと思われます。
栄小学校は明治40(1907)年7月1日、畚部(ふごっぺ)尋常小学校として開校しましたが、それ以前の10年間はお隣りの蘭島尋常小学校に通学していました。
同校は当時、蘭島の警察官駐在所の近くにあって、栄町地区から歩いて通学するには時間がかかり、フゴッペトンネルのある丘陵を越えるのは大変で、設立当時の記録には「通学ノ距離二里ヲ超エ雨天雪中ノ通学ノ困難ナルコト譬フルニモノアラザリキ」と2里(約6km)を越える通学の困難さは例えるものがないと記されています。
明治10年代、栄町地区には開拓使来の官林(国有林)の木材切り出しのため、たくさんの杣夫(そまふ)が入ってきました。その後、明治30年代になって官林の貸下げや払下げが許されて人口が増えたことが、小学校設立の追い風になりました。
前述の記録では「本村有志、父兄之ヲ恵ヒ理事者ト相謀リテ、工事ノ中四百余円ヲ寄付ニ仰ギ町費ヨリ二百余円ヲ支出」することになり、六百円(当時)の予算で工事が始まりました。
『栄町郷土史』によると、校地は石田彦八さんから450坪(約1,490平方メートル)のご寄付をうけ、木造平家、32.5坪(約107平方メートル)の校舎に20坪(約66平方メートル)の教室がひとつ、工事の竣工は明治40年5月のことでした。
翌6月18日には美国尋常高等小学校から異動した尾川悦良さんが初代校長になりました。1年生から4年生まで児童56名、開校式は同月15日に行われ、田中久蔵町長(当時)ほか町内の小学校長、地区の人達50名以上が集まって盛大に行われました。
明治45年には児童が増えたため20坪の教室をもうひとつ増築しました。
大正11年12月4日、大川尋常小学校の使わなくなった教室2つ分の木材をもらい受け、屋内運動場の建設工事が始まりました。多くの村民が協力して同月20日には竣工し、この日に落成式を行いました。午後いっぱい、時間を忘れて行った祝宴は「空前の盛典」だったそうです。
大正年間、毎年の卒業生は5~10名前後で推移、昭和に入って20名を超える卒業生のある年もみられました。
昭和8年頃には増えてきた児童と老朽化が進んだ校舎をなんとかしようと、保護者や地域の関係者が話し合い、役場へ要望を届けました。
しかしこの頃はニシンが不漁、冷害による不作に見舞われ、国内的にも昭和恐慌で厳しい時期が続いていました。昭和10年も「本年は不漁、不作のため運動会中止を畚部村役員会の決議として、部落会長より申込あり」と記録されています。
地区の念願がかなって新築工事が始まったのは翌11年のこと、北島善吉さんから寄贈された1,800坪の校地に170坪の建物が建てられました。落成日は昭和12年7月1日、開校30周年とあわせて盛大に行われたということです。当時の児童数は110名でした。