文化 広島県竹原市との広報誌交流(第4回)~歴史と文化財でコミュニケーション~

余市町は令和5年10月に広島県竹原市と交流都市提携を締結しました。両市町の交流を促進するため、広報誌でそれぞれの歴史・文化財を紹介しています。令和7年度は、竹原市の偉人を紹介してもらいます。第4回は池田勇人(いけだはやと)と三村剛昻(みむらよしたか)です。

明治32(1899)年、豊田郡吉名村(現在の竹原市吉名町)で、後に内閣総理大臣を務めた池田勇人が生まれました。7人兄弟の末っ子だった勇人は、やんちゃな子供だったようです。吉名尋常小学校を卒業後に進んだ旧制忠海中学校(現在の広島県立忠海高校)では、柔道部の先輩にニッカウヰスキー株式会社を設立した竹鶴政孝(たけつるまさたか)がいました。中学校卒業後、熊本の第五高等学校に入学しましたが、授業や勉強に熱心ではなく、友人とよく碁を打っていました。しかし、だんだんと学業にも精を出し始め、京都帝国大学(現在の京都大学)法学部に入学すると、トップクラスの成績を残すようになり、在学中に高等文官試験(当時の高級官僚の採用試験)に合格し、大蔵省に入省しました。
順調な官僚人生を送っていましたが、32歳で難病にかかり休職、故郷の吉名村で療養生活を送りました。池田家での家族をあげての看護もあり、池田の難病は快方に向かい、35歳で大蔵省に復職することとなりました。大蔵省で税務・財政の知識と経験を積み、48歳で大蔵事務次官となりました。その後、政治家を志して退官して、50歳で衆議院議員に初当選しました。第3次吉田茂(よしだしげる)内閣の大蔵大臣となった池田は、経済成長による国民生活の安定を目指しました。
そして昭和35(1960)年、池田は61歳で内閣総理大臣となり、「所得倍増計画」をかかげて高度経済成長を目指しました。昭和39(1964)年に咽頭がんが判明すると、同年に行われた東京オリンピックの閉会を見届けて総理大臣を辞職し、翌年に65歳で亡くなりました。
池田勇人と同じ時代を生きた竹原出身の人物に物理学者の三村剛昻がいます。明治31(1898)年に竹原町で生まれた三村は、東京帝国大学(現在の東京大学)理学部で学び、卒業後は広島高等師範学校・広島文理科大学(現在の広島大学)の教授に就任します。三村の専門は理論物理学で、昭和10(1935)年に発表した波動幾何学は、一般相対性理論と量子力学の融合を目指した先進的な研究として注目され、三村理論として学界に一派を築きました。
昭和19(1944)年、広島市内に建設された広島文理科大学理論物理学研究所の初代所長に就任しましたが、翌年8月6日の原爆投下によって研究所は破壊され、三村も被爆しました。研究所は昭和23(1948)年に竹原町の的場海岸に再建され、三村は原爆を経験した科学者として、原爆の悲惨さを訴え、科学の平和利用に向けて活動しました。昭和38(1963)年には、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(ゆかわひでき)らを竹原市に招いて、科学の平和利用に向けた会議を開催しました。
ところで、三村は市立竹原書院図書館の館長も務め、竹原市の文化振興にも貢献しました。市立竹原書院図書館には、三村が所有していた書籍が「三村文庫」として寄贈され、大切に所蔵されています。
池田勇人と三村剛昻はともに昭和40(1965)年に亡くなり、今年は没後60年となります。先人たちの足跡をこれからも記憶にとどめていきたいと思います。
(竹原市教育委員会 文化生涯学習課 文化財保護係)

問合せ:社会教育課文化財係
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