文化 新庄開府400年の歴史に学ぶ

~郷土への愛着と誇りを高め新たなまちづくりへ~
第10回 藩政の改革II

江戸幕府の成立後、家の安泰を図るため、江戸幕府徳川家の忠臣等との結び付きを強めた羽州新庄藩戸沢家。今回は宝暦・天保の飢饉()ききんを乗り越えた新庄藩が、財政を回復するために藩主・家老を中心に行った藩政の改革について、前回の「安永の改革」に引き続き、今回は幕末期に行われた改革「嘉永(かえい)の改革」について深掘りしていきます。

■戸沢と書けば金気が抜ける
北条六右衛門らによる安永の改革後も新庄藩の財政難は㆒向に改善せず、藩の役人たちが新庄領内外の有力町人たちに頭を垂れ、様々な理由で借財を重ねている状態でした。藩財政の逼迫(ひっぱく)は文政年間(1818~1829)から天保年間(1830~1843)にかけて山場を迎え、「戸沢と書けば金気が抜ける」と揶揄(やゆ)されてしまうような状態でした。その後も天保の飢饉によって追い打ちをかけられることとなります。

■嘉永の改革と吉高勘解由(よしたかかげゆ)
嘉永の改革は、十一代藩主正実(まさざね)の時代に始まりました。改革は当時御改正(ごかいせい)と呼ばれ、弘化4年(1847)当時、まだ若かった正実に代わり、後見人を務めていた正実の祖父正胤(まさつぐ)の名で出されました。藩士の禄高に関わらず、家族を含め一日五合の米を給付する「面(おもて)扶持の制」や、倹約令を発令しました。
また、家老の吉高勘解由を改革の責任者とし、その腹心ともいえる部下の佐藤茂平(もへい)や常葉嘉兵衛(ときわかへえ)らを登用。庄屋などの不正防止のための年貢米の直取り立てや国産奨励を推進するほか、水の便が悪く原野のままであった紫山(現舟形町)を開拓するなど、新田開発を行いました。
この結果、嘉永の改革は新庄藩で最も成功した改革となり、危機に瀕していた藩財政は回復しました。
藩政中期以降減少傾向にあった領内人口は少しずつ回復し、新庄藩は明治維新を迎えることになります。

◇嘉永の改革の主な政策

※営業許可証のこと

―次回に続く

出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著

詳しくは、歴史センターへ。
【電話】22-2188