文化 写真が語る「いわき」の歴史

■簡素化の公民館結婚式
昭和20年代、戦後の世情が落ち着くにつれて従来の派手な婚礼を簡素化させる生活改善運動の一環として「小名浜(後に磐城)地区結婚簡素化(後に合理化)推進委員会」が、昭和27(1952)年11月に設置されました。花嫁衣裳の貸し出しや公民館を利用した式を推奨し、1年目は14組が誕生しました。
昭和30年から始まった高度経済成長は豊かさをもたらし華美化を促しましたが、一方で若者は伝統的な付き合いよりも新しい生活スタイルに価値を求めるようになり、会費制により安価で披露宴を行うという動きが出てきます。
また「新生活運動」(生活の合理化や節約をめざす運動)を推進する団体では、必ずといっていいほど、冠婚葬祭(かんこんそうさい)の簡素化を運動目標とし、公民館活動の一端として位置づけられました。
こうした動きは、簡素な結婚式をめざした公民館方式(会費制、衣装貸し出しなど)と呼ばれました。家単位の結婚でない、しかも家に頼らないため手持ちの費用で、という現実に照らし合わせた、個人主体の結婚を象徴するスタイルとして定着していきます。
昭和30年代から40年代にかけて、結婚式のスタイルは変化していきます。会費制は敬遠される一方、新たに平、磐城(小名浜)などの各市に誕生した市民会館では裁量幅が広く結婚式の備えがそろっていたことから市民会館結婚式に移行しました。しかし、これも一時のことでした。昭和38年を皮切りに、市内で結婚披露宴を専門に備えた民間施設が相次いで誕生すると、公的施設における結婚式は姿を消していきました。
(いわき地域学會 小宅幸一)