- 発行日 :
- 自治体名 : 福島県南相馬市
- 広報紙名 : 広報みなみそうま 2026年2月1日号
『“不吉な城”牛越城』
原町区牛越地区の小高い丘の東端に築かれた牛越城は、慶長2~8(1597~1603)年の約6年間、戦国大名相馬義胤(よしたね)が居城とした城です。
牛越城は、元々牛越の領主だった牛越定綱(さだつな)の居城でしたが、文安2(1445)年に相馬高胤(たかたね)によって滅ぼされてからは、家臣を10人ほど配置する程度でした。その後、義胤は慶長2(1597)年に改修した牛越城を居城とするため、小高城から移りました。
ところが、関ケ原の合戦後の慶長7(1602)年5月12日、牛越城で「野馬追祭礼」の最中の義胤の元に、領地没収の知らせが佐竹義宣(よしのぶ)から届きました。
関ケ原の合戦で義胤が軍勢を動かした様子は確認できませんが、石田三成(みつなり)に味方したと徳川氏から疑われたことによります。
出羽国秋田に領地替えとなった義宣からは、新領地のうち1万石を相馬氏に分け与えるという提案があったようです。
義胤が秋田に行くことはありませんでしたが、領地没収もやむなしとして旧知の蒲生郷成(がもうさとなり)を頼り三春(田村市)に退去します。しかし、嫡男三胤(みつたね)(のちの利胤(としたね))は、徳川氏と領地回復の交渉のため、江戸に向かいます。
当時、相馬氏は三成と関係が深く、三胤の「三」は三成からもらい受けたといわれています。そのため、徳川氏と交渉するに当たり「三」を「蜜」に改めました。
蜜胤がつてを頼り徳川氏へ働きかけた結果、同年10月に領地回復となりました。
この蜜胤による領地回復の交渉の詳細は不明ですが、一度没収された領地の回復は、当時からしてもまれな出来事だったようです。
このように領地没収の知らせを受け取った牛越城は相馬氏にとって「凶瑞(きょうずい)ノ城」(不吉な、縁起の悪い城)とされ、翌慶長8(1603)年に再び小高城に戻ります。
日常生活でも目にする機会の多い牛越城は、相馬地方の歴史を知るうえで、貴重な戦国時代の城ということができます。
問合せ:市博物館
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