- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県笠間市
- 広報紙名 : 広報かさま 令和8年2月号
■麻疹(はしか)の流行(上)
麻疹(はしか)は、ウイルスが引き起こす急性の感染症です。予防接種がなかった江戸時代には、十数年から二十数年の間隔で全国に広がる大流行が繰り返されました。大流行になると小児だけでなく幼児期に流行を経験しなかった大人も身分に関係なく感染しました。後に笠間藩主となる牧野貞通(さだみち)も二十三歳であった享保十五年(一七三〇)十一月、大流行のさなかの江戸で麻疹に罹(かか)りました(『御家譜(ごかふ)』)。当時の麻疹の治療は生薬を土瓶で煎じて患者に飲ませ、病後の休養(後養生(あとようじょう))を充分に取らせることでした。後養生の期間は働けないため、商家は店を閉め、農家は農作業をやめ、武士は勤めを休み、社会と経済の動きは止まりました(鈴木則子『江戸時代の流行り病』、以下『流行り病』)。
安永五年(一七七六)の流行の記録が笠間に残されています(「安永三年祭礼之節天王当屋幷出物等之覚」)。笠間城下随一の賑わいを見せた牛頭天王祭礼(八坂神社祇園祭)は六月に行われましたが、この年の人出について「見物人、麻疹流行(はやり)候故か当年存外少く候」と記録されました。笠間では大流行を知ってか知らずか祭りが執り行われました。
次の大流行は享和三年(一八〇三)にありました。江戸では麻疹に罹って働けない人々に幕府は救いの手を差し伸べました。これは病人だけでなく看護で働きに出られない人々にも米や銭を支給するものでした。笠間では藩主牧野貞喜(さだはる)(貞通の長男)が郡奉行(こおりぶぎょう)の高塩徳左衛門らに領内の麻疹流行の実態調査を命じました。この史料が「御領分茨城郡真壁郡村々麻疹人書上」です(『牧野家文書』)。これによると四月から十二月にかけて、五万石の笠間藩領(常陸国内)では合計七六七一人が罹患し、一五七人が死亡しました。内訳は男八二人、女七五人とほぼ半々ですが、年齢を見ると大人四五人、子ども一一二人と子どもに多くの犠牲者がでました。五万石の領民の四十パーセント以上(武士とその家族は除く)が罹患したと推定されます。この年の二月、世子(せいし)(藩主の跡継ぎ)の牧野貞為(さだため)(貞喜の長男)が江戸で病没しました。二十二歳の若さでした。
十八世紀以降、笠間藩領(常陸国内)は麻疹以外に疱瘡(ほうそう)や病名不明の疫病に何度も見舞われ、戸数と人口が減り続ける原因の一つになりました。藩では村々に病気平癒(へいゆ)の祈祷料を支給したり、藩医の製造した丸薬(がんやく)(奇応丸(きおうがん))を配ったり(『枝平内名主(えだへいないなぬし)日記』)、年貢を減免したりしました。しかし、一七八〇年代に入ると浅間山の噴火や天明の飢饉、大水といった自然災害も加わり、農村と藩財政を立て直す藩政改革が必至の状況となりました。
文政六年(一八二二)から七年にかけても大流行がありました(『流行り病』)。この時の笠間の状況は『十五年来眼目集』(以降『眼目集』)からうかがえます。この史料は郡奉行を長く勤めた手塚多助(てづかたすけ)により編(あ)まれた藩政改革の記録で、当時の笠間藩は文化六年(一八〇九)に始まる藩政改革のただなかにあったこと、文政六年以前から麻疹のほかに疱瘡や病名不明の疫病が流行し、病災の村が多くあったことが記されています。藩はこうした村に対して実情に合った復興支援を組織的に行い、そのなかに医療関係者の表彰と支援がありました。
その一人が小塙村(桜川市)の村医者元孝(げんこう)でした。元孝は疫病が猛威を振るった小塙村で患者を丁寧に診察し、薬種(やくしゅ)(漢方薬の原料の生薬)を購入して一万二千服以上の薬を調剤しました。薬種を買うお金がなくなると家財道具や自分の衣類まで質入れしてそのお金を作りました。文政二年(一八一九)に代官は元孝の表彰を上申し、藩は翌年に元孝のこれまでの労苦を賞し医療資金十両を支給しました。さらに、若い藩医二名を大岡村(桜川市)に派遣し、疫病が流行している村々で治療に当たらせました。改革の成果はゆっくりですが着実に挙がりました。改革全般を指導した牧野貞喜は藩主職を次男貞幹(さだもと)に譲ると笠間に引っ越し、改革の行く末を案じつつ、文政五年に六十五歳で病没しました。
市史研究員 深谷祐(ふかやゆう)
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