文化 那須の歴史再発見!

◆那須町の地域文化遺産 vol.7
今回は、中原開拓と「拓」碑を紹介します。
中原開拓は、那須地区にいた軍人らを中心とする鉾田開拓団が終戦直後に那須村の旧軍馬補充部の用地に入植した開拓です。
昭和20年11月、終戦時に那須野飛行場(那須塩原市埼玉)や高久国民学校(那須町)などに駐屯していた第26飛行団(同年7月までは鉾田教導飛行師団。もとは茨城県鉾田市にあった鉾田陸軍飛行学校を前身とする)の旧将校らは、鉾田開拓団を結成し、中原に本団、青木(那須塩原市青木)、新堀(那須塩原市野間)に分団を設置し入植しました。中原では大島・長南寺・大沢地区の復員軍人も含め45名が入植しています。ちなみに中原開拓の名付け親は、第7代那須村長・笹沼敬司によるものです。
中原開拓の入植地は、篠が多く繁茂し、樹齢40年を越えるクヌギやナラの木が林立する地域で、原野を拓く一からの開拓でした。しかし、旧軍との関係も深い鴻池組関係者らによる住宅・開墾作業の応援や開拓の本拠となる「耕源寮」の建設、大島地区との共同による電気の導入、柏台や茶臼、田島、新夕狩など7組合による那須村帰農組合連合会(事務所は中原)の設立などもあり、着々と開拓は進められていきました。
入植当初は、陸稲、アワ、ヒエ、麦、蔬菜など畑作を中心とした栽培をしていましたが、昭和23年からは北海道から乳牛10頭を導入し、酪農への道筋をつけると、26年からは開田作業も行われ、酪農とコメが中原地区の営農・収入の柱となりました。昭和53年時点で中原開拓では、乳牛約260頭を生育していました。
生活も安定してくると入植者らは、昭和29年に大島湯泉神社から分社を行い、地区に神社を建立しました。そして昭和44年に開拓24周年記念として、神社境内に入植記念碑である「拓」碑と公民館を設置しました。石碑の揮毫は、中原開拓の命名者である笹沼敬司の子で当時那須町長だった笹沼賢彌によるもので、親子二代による縁を感じずにはいられません。

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