文化 芸術祭が始まる

◆(8)田勢梨佳さんの《Backyards(バックヤーズ)》
東京藝術大学美術学部絵画科准教授 アーツ前橋チーフキュレーター 宮本 武典(みやもと たけのり)

夏休みに桐生の重伝建地区で合宿を行った東京藝術大学の学生たち。長期休みが明けてあっという間に1か月が経ち、今はそれぞれ学年末に提出する卒業制作や進級判定作品に取り組んでいます。
有鄰館の赤煉瓦(れんが)倉庫に5枚組の風景画を展示した1年生の田勢梨佳さんは、いつも大きなヘッドホンを付けて学内を静かに歩いています。絵の制作中もヘッドホンを付けたままで、絵筆を運ぶ指先と、耳から入ってくる音楽に、周囲が見えなくなるほど集中している様子が伝わってきます。
彼女に一度、何を聴いているのか尋ねたことがあります。すると、「クラシック、特に古いオペラとバロック音楽がお気に入りです」と教えてくれました。なるほど言われてみると、彼女が描く油画はオペラッタの舞台美術のようです。出品作《Backyards》は、桐生について描いた油絵の連作ですが、どこかで見たことがある崩れかけた土蔵、ノコギリ屋根の三角、桐生川ダムからの放水、八木節のやぐらで揺れる提灯(ちょうちん)など、この街区で彼女が採集したいくつものイメージが組み合わされ、田勢さんにしかわからない物語のシーンを形作っています。
油画専攻の1年生は入学すると最初に自画像を描かされるのですが、そこでも彼女は自分の姿ではなく風景画を提出していました。僕は彼女の《F島》という風景画がとても気に入って、桐生の合宿に誘ったのでした。彼女によると、それは架空の島の風景で、強風にあおられる椰子に囲まれた暗い広場の真ん中に小さな焚き火があり、そこから立ち昇る一筋の煙が遠くの山並みへと流されています。
《F島》とは、実は彼女の故郷である福島県のことなのでした。東日本大震災の発生からもうすぐ15年。その絵の意味する事柄について田勢さんは多くを語りません。外からは見えなくても、ヘッドホンを付けて今日も静かに描いている彼女の心象には、いつも激しい風や波が、壮麗な音楽と共に駆け巡っているのでしょう。