文化 文化財を訪ねて ―見てある記―

■桶川駅の140年
桶川の玄関口である桶川駅は、令和7年で開業140周年を迎えました。
日本で最初の鉄道は、明治5年に新橋(現在の汐留駅)と横浜(現在の桜木町駅)の区間で開通しました。明治16年には、日本初の民営鉄道会社である日本鉄道会社により、上野から熊谷の区間に鉄道が敷かれました。これが、現在の高崎線となった路線です。高崎線開通から2年後の明治18年に、桶川駅が開業しました。
中山道の宿場であった江戸時代の桶川は、新河岸川の舟運で栄えた城下町川越に最も近い宿場であったこともあり、宿場町としての賑わいにとどまらず、麦やサツマイモ、紅花を始めとした農産物の集散地としても繁栄しました。しかし、明治時代になると宿駅制度がなくなるとともに、紅花生産の減少なども重なり、この時期のまちの経済は衰退傾向にありました。
こうした中での桶川駅の開業は、まちの物流を支える生命線となり、商人たちは新たな形態の経済活動を繰り広げていくことになります。明治23年には、桶川宿の商人が中心となって鉄道貨物の運送会社「共盛社」が設立されました。当時、桶川地域はサツマイモの生産量が県内でも上位にある一大生産地でした。桶川駅はそうした農産物の出荷拠点となり、物流を支える大きな役割を担っていきます。
昭和15年には駅の西側に三井精機工業の工場が操業します。工場内には駅から鉄道の引き込み線が敷かれ、戦中から戦後にかけてもここから直接、製品の出荷が行われていました。桶川駅西口では、今でもこの引き込み線の名残を見ることができます。
戦後の高度経済成長期を経てまちの人口が増えてくると、昭和45年に桶川町は市制を施行し「桶川市」となります。駅の役割も徐々に変化し、昭和48年には貨物の取り扱いが廃止されました。
その後は桶川市のベッドタウン化が進み、昭和56年には三井精機工業が川島町へと移転しました。この頃まで桶川駅は東口しかなく、駅の西側から改札へ行くには跨線橋(こせんきょう)を渡っていましたが、昭和57年には駅が橋上化され、今日の駅舎になりました。また、三井精機工業の跡地には、昭和59年にパークタウン若宮が完成し、駅西口公園が整備され、昭和63年には、おけがわマインが開業しました。こうして桶川駅は、物流の拠点から住まいの玄関口へと役割を変えてきたのです。
平成27年には上野東京ラインが開通し、都心への交通利便性は益々向上しています。また、現在進めている駅東口の整備によって、更に利用しやすい駅へと変わり、桶川の玄関口としての役割は、これからも続いていきます。

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