- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県毛呂山町
- 広報紙名 : 広報もろやま 令和7年12月号 No.1023
■富士山登頂と御縁年(ごえんねん)
葛貫地区の毛呂山総合公園入口バス停のそばには、大きく「仙元大菩薩(せんげんだいぼさつ)」と刻まれた高さ1mほどの石造物が建っています。この石造物は、日本一の山・富士山を崇敬する人々が集い、富士山登頂を行った記念に建立される「富士講碑(ふじこうひ)」と呼ばれる石造物です。
富士講は、江戸時代に盛行(せいこう)した霊峰(れいほう)富士を信仰する人々のグループ(講)を表す言葉です。富士講では、講の仲間で集まり経典(きょうてん)を唱える行事「オガミ」と富士山に登頂する「富士詣(ふじもうで)」を行います。
富士講では、講ごとに名称とマークを決めます。葛貫で活動していた富士講は、〇を描いた内側に「半」の文字を表すマークを用いたことから「丸半講(まるはんこう)」と呼ばれていました。
葛貫の富士講碑を見ると、富士山を菩薩様に見立てた仙元大菩薩の銘とともに、側面には、「登山三十三度供養(さんじゅうさんどくよう)」と建立の目的が、背面には「万延(まんえん)元年閏(うるう)三月」と建立日が記されています。
富士山に、33回登頂すると大願(たいがん)が成就するという言い伝えがあり、富士講の人々は足しげく富士山へ挑みました。
しかし、富士山登頂には、入山にあたり整える装束(しょうぞく)の準備や往復にかかる旅費など多くの費用が掛かるため、たびたび登ることは大変なことでした。
ただし、富士山が誕生したとされる庚申(かのえさる)の年は「御縁年」と呼ばれ、60年に一度めぐるこの年に富士山に登頂すると、33回の登頂と同じご利益が得られると伝えられています。
幕末の万延元年(1860)は庚申の年、御縁年にあたることから、富士講の人々は、人生のうちで御縁年とのめぐり合わせに感謝し、富士山に登りました。
葛貫地区をはじめ、沢田地区や下川原地区、近隣の越生町には、江戸時代から明治時代にかけての富士講の碑が建立されており、多くの人が美しい富士山に魅せられ、きびしい山道に挑んだことが伺えます。
近年は、温暖化の影響か冬化粧の期間も短くなったといわれる富士山ですが、次の御縁年(2040)も美しい姿を残していけるかは、今を生きる私たちの努力次第かもしれません。
