文化 先人たちの足跡No.310

■龍のまち「さかえ」の原点(三)
昭和30年12月1日、安食町と布鎌村が合併してめでたく栄町となります。合併式と町役場の開庁式の余韻が残る夕刻、静かになった安食の通りを提灯行列が並びました。
当時小学生だった大鷲神社氏子の高野内勝幸氏によると、安食小学校の児童が、提灯を手に提げ、安食の通りを歩いたと言います。安食小学校の校門から、先月号までに歩いた商店通りと、布鎌と安食を結ぶ長門橋、そして安食駅方面の3手に分かれたのだそうです。
子どもたちによる元気な行列が、安食の通りを賑やかにした翌日は、酉の日に当たっていました。大鷲神社の酉の市は、例年12月の初酉の日に開催されています。当時の記録を確認できてはいませんが、この年12月の初酉の日は、2日(金)であり、慣例通りであれば、2日から数日間、執り行われたと考えられます。
安食の酉の市は、関東で最も遅い時期の酉の市として知られています。11月号で紹介した善寿屋さんの話では、昭和30・40年代頃の酉の市には、商店通りを多くの人が列をなして詰めかけ、まるで「人の頭しか見えない」ほど盛況だったのだそうです。
近郊では、秋から冬にかけて、市川では9月にボロ市が、布川(利根町)では11月末に地蔵市が開かれていました。布川・徳満寺の生芝俊正ご住職によると、地蔵市で出店する露天商は、ボロ市からやってきて、最後に安食の酉の市へ回って行ったのだそうです。また、『利根町史』には、植木市が、龍ケ崎の薬師市から布川の地蔵市に来て、安食の酉の市へ移っていくのが恒例と記載されています。
布川といえば、令和7年1月・2月号で紹介した布鎌・押付の民話「入院した蛇」で、助けられた蛇が帰っていった場所として登場しましたが、歴史的にも、布鎌と関わりの深い地域です。利根川を介して形成されていた地域の交流が、年に一度の市において大きな活気を生み出し、新生「栄町」の出立に彩りを添えたことでしょう。(龍のまち「さかえ」の原点・完)

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