- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県長南町
- 広報紙名 : 広報ちょうなん 令和8年1月号
■長南開拓記(83)~開墾地は誰のものか~
律令制下の古代日本において、「土地と人民はすべて天皇に帰属する」という公地公民制は基軸となる理念と考えられています。その下で実施されていた班田収授では、国は六年に一度戸籍を作成し、その時に男女問わず六歳に達している者に、「口分田」として水田が支給されます。受給者は生涯にわたり口分田の耕作権を保有しますが、死亡すると再び国に返還されます。ただ、人口の増加があった場合は、口分田が不足してしまうので、補完のために「墾田」という制度がありました。これは田を開墾した者に、一代限り(国司が開墾者の場合は任期限り)で耕作権を与えるというものです。そして、開墾者の耕作権消滅後は、墾田は国に収公され、口分田として新たな受給者に配分されます。しかし、この制度は十分な効果が得られず、口分田不足は常態化していったため、養老七年(七二三)に墾田の保有を開墾者から三代までに延ばす「三世一身法」が制定されました。この政策は一時的に開墾地の増加をもたらしましたが、それでも結局は収公されてしまうため、その効果は鈍化していきます。そして、天平一二年(七四三)、開墾者の子孫が永続的に墾田を所有できる「墾田永年私財法」が制定されます。しかし、この政策は開墾振興策としては有効ですが、口分田不足の解消にはつながりません。公的に私有地を認めることで、むしろ公地公民制の維持にはマイナスと言えるものでした。ただ、墾田が開墾者の私有となっても租税は免除されないので、開墾で耕作地が増えれば、税収の増加につながります。つまり、支配者層でとっては「現実路線に舵を切る」政策であったと言えるでしょう。
さて、県内のこれまでの発掘調査成果では、奈良時代の集落跡は、古墳時代から継続するものと、奈良時代になって形成されるものに、大きく分けられることがわかっています。後者はまさにこうした世情に関係していると考えられます。町内ではこの時期の集落跡全体を捉える規模の発掘調査は行われていないものの、以前に紹介した根畑遺跡(芝原)や、川島遺跡(坂本)は、前者に相当します。一方、後者と見られる集落跡は、茂原市域に調査事例があります。
根畑遺跡の奈良時代の竪穴住居跡。竪穴平面が方形で、壁際にカマドが併設されるなど、基本的な構造は古墳時代後期と変わらないが、奈良時代には規模が小型化する傾向が見られるようになる。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
