- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県長南町
- 広報紙名 : 広報ちょうなん 令和7年11月号
■長南開拓記(81)~「上総」と「下総」~
中央集権国家が成立すると、中央政府がある都と各地の国府を結ぶ連絡路として、「五畿七道」という古代日本の行政区分に沿って「官道」が整備されました。「五畿」とは大和・山城・摂津・河内・和泉の五か国(現在の奈良県・京都府南部・大阪府)であり、五畿(畿内)を除いた本州と四国・九州は、東海道・東山道・北陸道・南海道・山陽道・山陰道・西海道の「七道」に区分され、七道にはそれぞれ官道の幹線が通り、支線も含めて都と国府の連絡路として機能していました。現在の千葉県(上総・下総・安房)は東海道に属しており、他に伊賀・伊勢・志摩(三重県)・尾張・三河(愛知県)・遠江・駿河・伊豆(静岡県)・甲斐(山梨県)・相模(神奈川県)・武蔵(東京都・埼玉県)・常陸(茨城県)が東海道の諸国でした。なお、近江(滋賀県)・美濃・飛騨(岐阜県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)・下野(栃木県)・出羽(山形県・秋田県)・陸奥(出羽を除いた東北地方)は東山道諸国ですが、武蔵も宝亀二年(七七一)までは東山道に属していました。さて、東海道を通る幹線は、走水(神奈川県横須賀市)付近で東京湾を渡り、富津市域に至るルートが設定されていましたが、この部分は浦賀水道と呼ばれる海峡にあたります。半島端部にあたる房総南部が上総国、半島基部にあたる北部が下総国なのは、このルートにおいて、房総南部の方が畿内に近かったことに由来しています。また、市原市域や木更津市域、富津市域に房総の主要古墳が多いのは、このルートが官道成立以前から、畿内と房総を結ぶ主要路であったことを示しています。ここが主要路となった背景には、縄文海進の名残で軟弱な湿地帯であった東京低地(現在の江戸川区・葛飾区・墨田区・江東区など)を避ける意図が大きかったと考えられます。しかし、対岸の距離こそ近いものの、潮流が速い浦賀水道の横断は本来リスクが大きく、また、東京低地の地盤安定化が進みつつあったこともあって、武蔵国の東海道編入と同年に、幹線は東京湾岸を陸路で行くルートに変更されました。この変更によって幹線は相模―武蔵―下総―常陸となり、上総は支線で結ばれることになったのです。
古代における浦賀水道航行の難しさを伝えるものとして、海神の怒りで起きた大波を、自ら生贄となって鎮めたヤマトタケルの妃・弟橘媛の説話がある。ヤマトタケルと弟橘媛の伝承は房総各地に知られるが、野見金山のどこかにあると伝えられる鏡塚もそのひとつ。
(町資料館 風間俊人)
