- 発行日 :
- 自治体名 : 神奈川県鎌倉市
- 広報紙名 : 広報かまくら 2025年6月1日号
■史跡永福寺跡の出土品
[県指定]史跡永福寺跡内経塚出土の経筒、水晶製数珠、白磁有蓋小壺(こつぼ)、木製櫛・鎌倉市教育委員会蔵
永福寺(ようふくじ)は、奥州(おうしゅう)合戦で命を落とした源義経(みなもとのよしつね)や藤原泰衡(ふじわらのやすひら)をはじめとする戦没者を供養するため、源頼朝(よりとも)が建久(けんきゅう)三年(一一九二)に建立した寺院です。鎌倉の都市づくりの中心となった鶴岡(つるがおか)八幡宮、頼朝の父・義朝(よしとも)の菩提(ぼだい)を弔った勝長寿院(しょうちゅうじゅいん)とともに、頼朝が造営した代表的な社寺の一つとして隆盛しました。しかし、室町時代に焼失し、以降は再建されず、後に廃寺(はいじ)となります。
昭和56年度~平成19年度に実施した発掘調査の結果、御堂の前面に大きな池があり、橋が架けられていたことなどが分かりました。浄土庭園(極楽浄土をこの世に再現することを目指して造られた庭園)を備えたその姿は、奥州合戦の際に、平泉藤原氏(奥州藤原氏)が建立した中尊寺などの伽藍(がらん)の壮麗さを目の当たりにした頼朝が、その様式を継承して建立したことが推測されます。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、永福寺は「中尊寺二階大堂(大長寿院)を模していた」と伝えます。
さらに、永福寺の堂内を飾っていた金銅製の荘厳(しょうごんぐ)具や仏具、仏像や調度品などの漆(うるし)製品が見つかりました。中には、平泉との共通性がうかがえる螺鈿(らでん)細工などもあり、どれも往時の永福寺堂内の壮麗さを伝えています。
また、永福寺の正面に位置する山頂からは、経塚(きょうづか)(経典を経筒などに納めて土に埋めた場所)が発見され、経筒(きょうづつ)の外容器とみられる渥美窯(あつみよう)産の甕(かめ)と片口鉢、銅製の経筒、水晶製数珠、木製櫛(くし)など、数々の埋納品が出土しました。
経塚や堂内を飾った荘厳具をはじめとする出土品は、6月21日(土曜日)まで鎌倉歴史文化交流館で開催中の企画展「平泉から鎌倉へ―兵どもが夢の先―」で公開しています。同展では、史跡永福寺跡の出土品(約40点)のほか、平泉の出土品(約80点)も展示しています。
平泉と鎌倉の出土品が一堂に会するこの機会に、鎌倉へと継承された「平泉の兵どもの夢」をぜひご覧ください。
[鎌倉歴史文化交流館]
■市内在住・在学の人は無料
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