- 発行日 :
- 自治体名 : 新潟県関川村
- 広報紙名 : 広報せきかわ (2025年5月号)
■「江戸時代わが村の暮らし」(48)
乙(きのと)からの詫び状
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)
「きのとの大日様」と呼ばれ親しまれている乙宝寺のお祭りは、花火大会もあって、それはそれは賑やかなものでした。わが村からも参詣に行く人は多かったでしょう。小見村庄屋の跡取り息子柳吉もその一人です。
天保十二(一八四一)年六月のことです。乙(きのと)は、柳吉の祖母の里、泊りだったのでしょう、夜の参詣でした。ところがそこで、とんでもない災難に巻き込まれます。
花火の夜にたむろしていた地元の若い衆、酒にでも酔っていたのでしょうか、柳吉を取り囲んで多勢に無勢、今で言うボコボコの目に遭わせたのです。
あわや一命にも関わるかというところで、通りがかりの人が制止、柳吉を救出。事件はすぐに庄屋たち村役人に届けられ、直接手を出した三人の名が分かりました。
人違いでしたと、一同ひたすら頭を下げたようですが、それで柳吉が収まるはずもありません。当然、父の平太郎にも知らされます。
さあ、大ごとです。恐れながらと代官所に訴えられたら、間違いなく刑罰です。百叩き、手鎖、もっと重ければ所払い。何よりも、家や村から縄付きを出す不名誉は何としても避けなければなりません。というわけで、加害者、その親、庄屋以下村役人、「どうか、表ざたにせずに内分にしていただきたい」と、平身低頭。
大人物の平太郎のこと、どうやら腹に飲み込んでくれたようです。そこで差し出されたのが、右の詫び状(部分)です。
「内分にて御聞き済み下されたく、たって詫び入れ候(そうろう)処、格別の御勘弁、内分にて御聞き済み下され、かたじけなく存じ候。然る上は、向後(今後)、村役人より若者共へ厳しく申し付け置き、小見村の衆中は申すに及ばず、他村の者、入り込み候ても、右様理不尽の仕方これ無きよう、きっと相慎ませ申すべく候…」
当時の文章は、声に出して読むのが普通だったからでしょうか、リズミカルに出来ています。
さて、その後の柳吉ですが、父亡き後十四代平太郎を襲名、平田家当主として激動の明治を生き抜きました。
※原文と解説は歴史館に展示、又は、下の本紙QRから