文化 さかい風土記175 坂井市にまつわる巡礼文化

■四国遍路と護城山
巡礼とは、単なる移動ではなく、心の在り方や精神を育む歩みとして、日本文化に深く根付いています。市内にも、そうした巡礼文化が息づく史跡があります。
丸岡町田屋(たや)にある「護城山八十八ヶ所霊場跡(ごじょうざんはちじゅうはっかしょれいじょうあと)(市史跡)」は、空海ゆかりの四国八十八ヶ所霊場の土を持ち帰って整備された「うつし霊場」のひとつです。これは、四国遍路(しこくへんろ)を地方で再現したもので、天保6年(1835)、丸岡藩の福島恵喜子(ふくしまえきこ)によって整備されたと伝えられています。
四国遍路が、八十八ヶ所の霊場を巡る今の形として成立したのは江戸時代以降とされ、真念(しんねん)という僧侶が記した『四国遍路道指南(しこくへんろみちしなん)』(1687)の影響や、社会の安定によって街道・宿場が整ったことで、庶民にも広まったといわれています。また、四国まで赴けない人のために、四国遍路の霊場の土を離れた土地に写す「うつし霊場」という文化も広まっていきました。
福島恵喜子は自身の敷地内にお堂や神社を建立し人々の福祉を願うなど、信仰に厚かったようで(『丸岡町史』)、四国遍路にも四度にわたり巡礼、そのたびに各札所(ふだしょ)(巡拝(じゅんぱい)する寺院)の土を持ち帰って護城山に祀(まつ)り、霊場を整備したようです。現在でも山中には石仏や石祠(いしぼこら)が残されており、当時の信仰の営みを感じることができます。
護城山の巡礼の道には三つの機能があるように思われます。第一に、移動するための「道」。第二に、土などの自然物を通じて四国遍路を象徴的に再現する「道」。第三に、歩行によって遍路を追体験する場としての「道」です。
このように、巡礼における「道」は、宗教的な意味を持ち、信仰を広め、精神を育む場です。護城山は、当時の宗教文化や人々の思いを知る上でも、今なおその意義を保ち続けているのです。