- 発行日 :
- 自治体名 : 山梨県山中湖村
- 広報紙名 : 広報やまなかこ 令和8年3月号
■古代の道路「甲斐路」(3)(忍野盆地を通り平野に向かう)
富士吉田市内を通った甲斐路は、大明見と忍草境の鳥居地峠を越えていきます。現在、その下をトンネルが抜けていますが、古代はこの上を越したと考えられます。鳥居地峠はその名前の示す通り大事な結界の場所でした。忍草浅間神社に保管されている額「富士大権現」のあった場所と考えられます。甲斐路は、鳥居地トンネルの杓子山側の平地に降りて来たと考えられます。この場所から縄文時代の遺物と平安時代の住居の跡が出土した笹見原遺跡があります。この笹見原遺跡で注目される遺物に平安時代の墨書土器があります。これには「水神」と墨で書かれていました。甲斐路が通っている時期に忍野盆地が水で覆われていたことを示しています。甲斐路は忍野盆地の底を通ったのではなく、底より一段上の縁を通ったのでしょう。忍野中学校の北側の一段高い段丘上からは駿東郡(小山町~御殿場市~沼津市)の土器が出土しています。これは駿東郡との交流を物語るものです。また、この場所を通る道は昔から官道(政府の公式な道という意味と考えられます)と呼ばれていました。忍野盆地の北側の段丘上からたくさんの平安時代の土器が出ています。
甲斐路は内野八幡社付近を通り、段丘の緩くなった内野浅間神社から平野方向に向かったと考えられます。この辺りは、関東大震災で大きな被害を受けたのではっきりした証拠が見出せないのですが、内野村は元禄6年(1696年)に現在の場所に移転します。移転前の内野村集落を当時から残る墓石や石造物から旧内野村集落や甲斐路のルートを類推することができます。当時は家墓といって家の敷地の中に墓を造りました。家墓の位置を地図に落としてみると内野浅間神社に続く一直線の道路が浮かび上がります。この道路を山中湖側に延長すると現在でも残る道幅の大きな道路跡ピッタリはまります。しかも、その場所は字平野坂と呼ばれています。峠という字は古代にはありませんでした。坂という字を峠の意味で使いました。原義はさかいです。平野坂は平野と境となる峠道と解釈できます。この後、甲斐路は平野に向かいます。
・忍野盆地を走る甲斐路の推定路
この道は古代(飛鳥・奈良・平安時代)だけでなく江戸時代も使われたと思われる。
※詳細は本紙をご覧ください。
