- 発行日 :
- 自治体名 : 長野県伊那市
- 広報紙名 : 市報いな 令和7年12月号
■Vol.40 守屋貞治の一番弟子 渋谷藤兵衛(2)
下川手(しもかわて)村(現伊那市美篶(みすず))の石工渋谷藤兵衛(しぶやとうべえ)はこれまでの高遠石工とは違った独自の表現技法に挑戦した石工でした。その表現技法のひとつが美しい陰刻です。高遠石工の石造物の陰刻は浅い彫(ほ)りが比較的少ない傾向にあります。特に文字については力強く、深くえぐり取るように彫ったものが印象的です。藤兵衛の陰刻は深い彫りも浅い彫りもあり、その強弱が美しさを引き出しています。それがよく分かる作品として、今回は建福寺(けんぷくじ)の仏足石(ぶっそくせき)を見てみましょう。
建福寺の仏足石は本堂に向かって右前に安置されています。標柱も解説看板もないため、参拝した方も気付きにくいかもしれません。しかし、近づいてまじまじと見てみると、その表現技法の高さに驚かされます。
仏足石は、目に見えない仏が実は目の前にちゃんといるのだということを表す石造物で、インドで生まれました。日本では奈良時代に造られた薬師寺の仏足石が最古のものとして知られています。建福寺の仏足石はこの薬師寺の様式に倣(なら)って造った伊勢朝熊山金剛證寺(いせあさまやまこんごうしょうじ)の仏足石を模したもので、仏足石歌碑も一緒になっています。歌碑の裏面は建福寺の至真和尚(ししんおしょう)がくずし字で書いた由緒書を刻み込んでいます。由緒書には、天保6年(1835)に高遠藩主内藤頼寧(よりやす)が岩石を提供し、高遠藩重役(当時元締(もとじめ))岡村菊叟(きくそう)が中心となって事業を担当し、義則(よしのり)という人物が流麗な万葉仮名の書で十七首の仏足石歌を書き取り、仏画を描くことで知られる実門(じつもん)和尚が由緒書を作文したことが刻まれています。美しい書の形を損ねることなく刻まれた文字、バランスの取れた太さの線で刻まれた仏の足跡は大変な手間を要したことが想像されます。保存環境が悪ければ磨滅(まめつ)して消えてしまいそうですが、建屋に守られて今でもその美しさを維持しています。
問合せ:高遠町歴史博物館
