- 発行日 :
- 自治体名 : 長野県小海町
- 広報紙名 : 小海町公民館報 第560号
この幻灯機は鎰掛の篠原晴喜さん宅で長い間大事に保管されていたものです。
最初は「写し絵」と呼ばれ、明治初期に「幻灯」と命名された。この幻灯機は視覚教材として学校でも利用され、日清戦争後は国産品が出現し普及していった。
そうしたなかにあって社会教育に幻灯の価値を認める少数の教育者がいた。長野県においては、南佐久郡北牧村の篠原国三郎と上伊那郡宮田村岸本與の二人である。
芸名「愛国生」と称した篠原国三郎は長野県で最初の幻灯師である。
篠原国三郎は慶応三年(一九三五)南牧村海尻の井出家に生まれる。
その後、東京に出て明治二十一年東京簿記促成学舎を卒業する。
明治二十七年、写絵営業鑑札を東京市芝区より受ける。
この頃から最新型の五燈心の石油ランプ光源幻灯機を持ち、主に諏訪、飯田、名古屋、群馬県を中心に全国を巡回し、学校や紡績工場などで幻灯会を開催した。
その主な演目は日清戦争、日露戦争、二宮金次郎、吉田松陰、楠木公桜井駅之決別、衛生思想の普及、家庭教育などであった。
国三郎の声はよく響き渡り、さわやかな語り口で会場の聴衆の心をつよく引き寄せたとされる。
国三郎は、一年の内十ケ月余りは家を留守にし、農繁期に手伝いに帰るぐらいであった。今と違い交通機関の整備が無かった明治大正の時代に、重い荷物を背負い全国をくまなく巡回した苦労は想像もつかない難事であったであろう。
篠原国三郎の全国社会教育、幻灯巡行の旅は明治中期より大正、昭和初期にわたり、昭和十年六十九歳で没するまで幻灯一筋の人生を貫いた。
町志中世編纂委員 成澤良夫