文化 秩父事件の定説は間違っていた!(3/3)

秩父事件が起こってから今年で141年が経過します。この事件は史料が多いこともあっていろいろな見方ができ、現在でも興味が尽きない事件です。今回、裁判記録を読み解く中で判明した情報を3回に分けてお知らせしたいと思います。

(3)貫平の息子高三郎は襲撃を指揮したのか?
菊池貫平の次男、高三郎は小海村本村の酒屋である黒沢市次郎宅が襲撃された時、困民軍の指揮を執りその時の姿が若武者の様であったとの言い伝えがある。しかし彼の裁判言渡書の中には市次郎宅の襲撃に対しての罪は一切出てこない。裁判言渡書より彼の罪を記すと
『11月9日早朝、北相木・明神の森に集合し川又で二手に分かれる。高三郎は南相木の中島の戸長、中島嘉仲宅へ12名程で押入り、刀、鉄砲、金品などを奪う指揮を執る。その後小海へ向かう途中、人足の進行が遅い事に怒り本村の通称「ばっぱ」まで引き返し、抜刀して早く進行する様に脅迫した。以上により本来ならば最高5年のところ、16歳以上20歳未満により1等を減じ重禁固6か月に処す。』
とのことである。
はたして高三郎は市次郎宅の襲撃を指揮したのだろうか。襲撃は11月8日の夜10時頃だと言われているのでその場に居ることは可能であったろう。しかし、70名程と伝えられる困民軍を17歳の彼が指揮しなくても秩父や上州から来た重立がいたのではないか。言い伝えた者が若く逞しい高三郎の姿に指揮を執っていると感じたということも考えられるが裁判言渡書からは事実を読み取れなかった。高三郎は後に酒屋の裏手で馬に蹴られたのが元となり貫平より早く死亡している。このことは事件の祟りだったなどと言われているようである。

文化財調査委員 大畑 新井松夫