イベント 祭りフォト かりがね祭り 投げ松明(たいまつ)

富士川の氾濫被害を防ぐため、江戸時代前期に完成した「雁堤(かりがねづつみ)」。
その偉業を後世に語り継ぐために「かりがね祭り」は毎年、10月第一土曜日に開催されています。
今回は、祭りのフィナーレを飾る「投げ松明」を作る水神区の人たちに密着しました。

かりがね祭りの代名詞とも言える「投げ松明」。参加者は、高さが異なる3つのジョウゴを目がけて、手作りの松明を投げます。
投げ入れた松明から燃え移った火が次第に大きくなり、滝のように流れると、会場は熱気に覆われ、さらに盛り上がりを見せます。

■技術と思いを継承していく
技術が目まぐるしく変わる今も、昔から受け継がれてきた伝統の明かりを消さぬよう、次の世代へ継承する人たちがいます。先人の知恵に新しい風を吹き込み、思いをつなぐ。
本インタビューでは、そんな継承者たちの思いにふれました。

▽Qなぜ永く続いていると思いますか?
大代 新しくこの地区に来た人も若い人も積極的に参加してくれていますよね。
鈴木 初めて参加する人にも積極的に声をかけたり、仕事を任せたりして、場に入りやすい雰囲気をつくるように心がけています。昔からの顔見知り同士が固まって作業をしてしまうと、新しく参加してくれた人は何をしていいか分からないし、つまらないと感じてしまうと思います。
望月政 そうですね。次の世代に積極的に声をかけることで、地域のつながりも生まれています。私たちもいつまでも元気に作業ができるわけではないので…
大代 続けるには、次の世代の誰かがやらないといけないですからね。みんなにその意識があるのではないかと思っています。
鈴木 区長会に行くと、ほかの区の人から「水神区の人は、まとまっていていいな」と言われることが多いですよ。
大代 確かに。「雁堤の草刈りをやるぞ!」と声をかければ、30~40人くらいが集まりますね。

▽Q作業する上での秘訣は何ですか?
鈴木 祭りの投げ松明は、大前提として、けががなく安全に開催することを一番に考えて製作しています。その中で、ジョウゴは遠くからでもきれいに、できるだけ美しく見えることを意識しています。
望月政 この地区には、様々な職業の専門家がいて、それぞれが協力してくれるのも大きなポイントですね。
望月一 そうですね。いろんな知識や技術を持つ人たちが集まって、「ああしたらいい」「こうしたらいい」と意見を出し合い、松明やジョウゴができています。
鈴木 松明を回して投げるときに形が崩れないように、縄を編んだり、「番線」という金具で縛ったりして、実際の作業工程を見て“全てに理屈がある”ということを理解してもらうほうが、製作マニュアルを見てもらうよりも正確なものができます。
望月政 理屈に沿って作ったほうが安全性も保たれますし、記憶だけを頼りに進めていくことにならないので、毎年同じように製作することができますね。

▽Qどんな思いで祭りに携わっていますか?
望月一 何かを励みに頑張るという感覚はあまりないのですが、ジョウゴに火がついて、滝のように流れ落ちるときの迫力には毎年興奮します。
望月政 毎年、「今年もけががなく無事に終わった」と思うとすごく安心します。それと同時に「今年も楽しかった~!」と思います。やっぱり自分たちが楽しめないとね。その気持ちは、参加者にも伝わっているような気がしますね。
鈴木 祭りは「大人が子どもに返ることができる唯一の時間だな~」と思いますね。

■祭り開催の地 雁堤(かりがねづつみ)の歴史
▽雁(かり)が連なって飛ぶ形に似ている
雁堤の名称は、堤の形状が”雁が連なって飛ぶ形に似ている”ことからついています。その規模は、岩本山山裾から松岡水神社に至る全長2・7キロメートルです。
江戸時代初期は、各地で河川の治水と新田開発が行われた時代。富士川も雁堤の築堤によって、左岸(東岸)下流域が新田地帯として開発されました。

▽古郡(ふるごおり)三代の悲願
本格的な富士川治水に挑んだのは、富士郡中里村(須津)の小土豪であったと言われる古郡家でした。
古郡孫太夫(ふるごおりまごだゆう)重高は籠下村(かごしたむら)(松岡)の開拓のため堤防工事に着手し、元和7年(1621年)岩本に一番出し、二番出しと言われる突堤を築きました。
重高の子である重政は、引き続きこの地の新田開発に着手し、加島代官に任じられ、手腕を発揮しました。さらに重政の死後、その子である文右衛門(ぶんえもん)重年は富士川の水勢を弱めるため、氾濫時に水流を留める広大な遊水池を準備することを着想し、逆L字型の堤防を築造しました。
こうして雁堤は、古郡重高・重政・重年の三代にわたる50年余の歳月と莫大な経費、そして治水の工夫を結集して完成。
以後、富士川の氾濫から守られた加島平野は、「加島五千石の米どころ」とも言われる豊かな土地に生まれ変わりました。

▽地域に伝わる人柱伝説
17世紀後半の寛文年間のころ、岩淵の渡しから富士川を渡ってきた巡礼姿の老夫婦がいました。
夫婦が籠下村(松岡)の代官屋敷の前を通ると、役人に行く手をさえぎられてしまいました。
役人によると、富士川の氾濫を防ぐために堤防を築いているが、たびたび決壊して工事が進まないので、富士川を渡ってくる千人目の者を人柱に立てて河流を鎮めようと皆で決め、その日から千人目がこの老夫婦に当たったのだと言います。
これを聞いた夫婦は、東国巡礼を終えたら人柱になると約束し、3か月後に戻ってきました。夫は白木の棺に入れられ、堤が最も破れやすい箇所の地中に埋められました。
夫は、「自分が生きている間は地中から鉦(かね)を鳴らし念仏を唱え、それらが絶えたときは死んでいるだろう」と言い残しました。地中からは鉦の音が21日間響いていたと伝えられています。
人柱になった巡礼の魂は、今日もなお、この堤を守り続けています。