- 発行日 :
- 自治体名 : 愛知県新城市
- 広報紙名 : 広報しんしろ ほのか 令和8年1月号
■新城城築城から450年
令和8年は新城城ができて、450年と大きな節目の年となります。長篠・設楽原の戦いで長篠城を守り抜いた奥平信昌が徳川家康の力を借りて、今の新城小学校のある場所に築いたお城です。
◇しんしろ?しんじょう?
私たちは新城を普通に「しんしろ」と読んでいますが、新城のことを知らない人のなかには「しんじょう」と読む人がいます。なぜ、「しんしろ」と読むようになったのでしょうか?
実は「新城城」の前に「新城(しんじょう)」があったのです。今の新城橋のたもとに野田城に対抗するため、上平井にあった大谷城(おおやじょう)の城主菅沼定継が新しい城を築きます。大谷城に対して「新城(しんじょう)」と称していたようです。すでに「新城(しんじょう)」があったため、長篠城に対する新しい城として「新城城(しんしろじょう)」と名付けたと考えられています。
家康が娘亀姫に宛てた書状に「しんしろ」とひらがなで書いてあり、1580年代にはすでに「しんしろ」が定着していたものと考えられます。
◇新城城の役割
なぜ、奥平信昌は新城城を築いたのでしょうか。長篠城を修復して、戦国武将に相応しい城になるように拡張すれば良かったのではないかと考える人もいます。
新城城の築城には奥平信昌だけでなく徳川家康の考えも大きく影響していたのではないかと考えられています。
長篠城は寒狭川と宇連川に挟まれた奥三河の軍事拠点でした。長篠・設楽原の戦いに勝利し武田家の脅威が遠のきました。奥三河を安定的に統治するためには、軍事拠点ではなく、政治的拠点が必要と考えました。その場所が、新城城でした。
郷ケ原と呼ばれる何もない場所に城を築き、城を中心とした町づくり(城下町)を行います。奥平信昌、徳川家康の思いが、今の新城市の基礎を築いたのでした。
問合せ:設楽原歴史資料館
【電話】22-0673
