文化 歴史は未来の羅針盤 温故知新

[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。

◆大字小野(この)
大字小野は、竜王山を水源とする佐久良川の支流前川(まえかわ)上流部山間に位置し、北で杣(そま)、南で西明寺・奥師、東で川原、西で中之郷と接し、集落は、字域の中央南寄りの前川の北岸に形成されています。小野村は、江戸時代後期に編さんされた地誌である『蒲生旧趾考(がもうきゅうしこう)』巻九によれば、古くは西明寺村に属し、のちに分かれたとも伝わります。領主は幕府と旗本佐野氏の相給(あいきゅう)、鳥羽藩土井氏、鳥羽藩大給(おぎゅう)松平氏領などを経て宮津藩本庄氏で幕末を迎えました。
字域の南の字「石子野(いしこの)」にある標高342・1メートルの石子山は、花崗岩(かこうがん)を産出し、『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』のなかに「土民石を切取って業とす」とあるように、中世以来、石仏用の石材の石切り場として知られていました。

◆人魚塚にまつわる伝説
小野の字「久世(くぜ)ホサツ」には「人魚塚」と称される塚があり、次のような話が伝わっています。
醍醐(だいご)天皇(在位897~930)のころ、蒲生川(現、日野川)に棲(す)む人魚が災いをもたらす恐れがあるとのことで、都から右大臣の菅原道真(すがわらのみちざね)と中平(なかたいら)の左大臣を派遣し、退治することとなった。人魚を追い詰めた道真が天皇の宣命(せんみょう)(天皇の命令)を読み上げると人魚は水中から跳ね出て死んでしまったので弔い、その上に高さ3尺(約90センチ)の石を墓標として立て、その地を久世旁(くせぼう)と名付け、都へ帰っていった。その縁で小野村に菅原道真を祀る天満宮(天神社(てんじんじゃ))が祀られ、その「人魚塚」が今も残っている(『東櫻谷志』)というものです。
この人魚塚伝説は、『日本書紀』推古(すいこ)天皇27(619)年4月の人魚に関する記述に由来していると考えられています。別に聖徳太子と人魚が関わる伝説もあり、これらのことから、天神社の参道には、「聖徳太子の腰掛石(こしかけいし)」、もしくは「菅原道真の腰掛石」とされる石が残されています(『近江日野の歴史』第六巻民俗編、『東櫻谷志』)。

◆渡来人を祀る鬼室神社
小野の集落の東、字「西ノ海道」には、鬼室神社(きしつじんじゃ)があります。江戸時代までは不動堂でしたが、文化3(1806)年に当社の本殿裏に八角形の宝珠状(ほうじゅじょう)石柱が鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓碑(ぼひ)であるとされ、以来、人々の崇敬を受けています。明治以降は、西宮(にしのみや)神社となり、昭和30(1955)年に現在の社名に改められました。
鬼室氏は、祖先は百済(くだら)王族の姻族(いんぞく)であるといい、『日本書紀』天智(てんじ)天皇8(669)年是歳に「又佐平余自信(さへいよじしん)・佐平鬼室集斯等、男女七百人余人をもって、近江国の蒲生郡に遷(うつ)し居(お)く」とあるように660年に滅亡した百済から、当時友好関係にあった日本へ渡ってきた渡来人で、その知識や技術が必要とされ、鬼室集斯は学問に関する最も重要な役職「学職頭(ふみのつかさのかみ)」に任じられました(『近江日野の歴史』第八巻史料編)。
この鬼室氏と鬼室神社の存在がきっかけとなり、かつての百済の都で、鬼室集斯の父・鬼室福信(ふくしん)を祀る恩山別神堂(うんざんべっしんどう)がある韓国の恩山面(うんざんめん)と日野町が平成2(1990)年に姉妹都市となり、現在も交流を行っているなど、鬼室神社は、古代からの国際的な関わりの重要なシンボルとなっています。

問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
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