文化 歴史は未来の羅針盤 温故知新

[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。

◆大字里口(さとぐち)
大字里口は、必佐地区中央東端の出雲川(いずもがわ)左岸の低位段丘面(ていいだんきゅうめん)に位置しており、北から東で大字上野田(こうずけだ)、南から西で大字内池と接しています。
字域の南端付近に御代参街道(ごだいさんかいどう)が東西方向に通り、その沿道に集落が形成されています。また、字域東辺の上野田との字界(あざかい)沿いを南北に伸びる道は、字域の北にある大字山本の字「扣山(ひかえやま)」の共同墓地に向かう道であることから、山本道・そうれん道などと呼ばれています。
中世の当地は、蒲生氏庶流の野口氏の本拠地とされ(『近江蒲生郡志』巻三)、応永(おうえい)2(1395)年の田地売券(でんちばいけん)(照光寺文書)という史料に「野口」と記されているように、明治時代以前には野口村と称されていました。
旧村名の野口は、当村の東方に広がる日野谷(ひのだに)といわれる一帯が古くは日野牧(ひののまき)と呼ばれており、当村がその入口にあたることに由来するとされています(『蒲生旧趾考』巻七)。
近世は幕府領、旗本最上(もがみ)氏領で、近代に入り、明治7(1874)年10月7日に里口村と改称されました(『近江日野の歴史』第四巻近現代編)。
明治十年代初頭の「滋賀県物産誌」に「地勢平坦車馬(ちせいへいたんしゃば)ノ往来(おうらい)便(べん)ニシテ物貨ノ運搬自由ナリ」とあることから、交通の便に恵まれた平坦な土地であり、農間余業として貨物の運搬に従事する人もいました。

◆八幡神社(はちまんじんじゃ)の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)
字域の南端、集落のほぼ中央の字「宮裏」に八幡神社が鎮座(ちんざ)しています。主祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)で、創祀年代は不詳ですが、社伝によると蒲生雅俊(がもうまさとし)が鎌倉の鶴岡(つるがおか)八幡宮を勧請(かんじょう)したものとされます(『滋賀県神社誌』)。
その境内の南隅に、花崗岩(かこうがん)製の石造宝篋印塔があります。相輪(そうりん)が欠失しているほかは各部が残っており、現在の高さは91センチメートルですが、元は総高が約150センチメートルの五尺塔(ごしゃくとう)として造立されたものであろうと考えられます。基礎に宝瓶三茎蓮(ほうびょうさんけいれん)と散蓮(さんれん)が刻み出され、塔身には金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)の種子(しゅじ)を配し、南北朝時代の貞治(じょうじ)5(1366)年の年紀が刻まれています(『近江日野町の石造美術』)。

◆八幡神社の巨樹カヤ
八幡神社の境内には、神社のシンボルとして親しまれているカヤの巨樹があります。
カヤは、樹高約30メートルで、胸高周囲(地上1・3メートルで計測した幹周囲)は約4メートルあり、日野町を代表する巨樹の一つであり、県下有数の大木でもあります(『近江日野の歴史』第一巻自然・古代編)。
八幡神社のカヤは、樹齢700年以上と推定される神木(しんぼく)です。こうした古巨樹が現在に至るまで保持されている意味は大きく、地域の人々の信仰の対象として、神社やカヤが大切に守られてきたことを表しています。

問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008