- 発行日 :
- 自治体名 : 滋賀県甲良町
- 広報紙名 : 広報こうら 2025年12月号
■甲良4500年の歴史をたどる 律令期の集落形成
◇7世紀後半、荒れ地の中に突如一大住居群現る
昭和61年、下之郷区の圃場整備事業に伴う発掘調査で、南北500m東西300mの土地に約200基もの竪穴住居群が規則的に建ち並んでいたことが明らかになりました。また、何本もの灌漑用水路が走っていることも確認されました。
発掘を担当された宮﨑幹也氏の話では、このような水路・住居群は下之郷を中心として尼子南・四十九院辺り一帯にまで広がっているとのことです。
古墳時代末期の6~7世紀前半、無人の荒野に突如築かれた北落・楢崎一帯の群集墳。それに続く7世紀後半、荒れ地に整然と出現する一大住居群。このような劇的変化は、どのような時代背景のもとに生まれたのでしょうか?
◇律令制度の導入から完成へ
7世紀に入ると、先進国中国の隋・唐の制度を学ぶため遣隋使や遣唐使が派遣されるようになります。その中で中央集権的な律令制(法体系)に学ぶ必要が意識されていきます。
645年に蘇我氏を倒した中大兄皇子(天智(てんじ)天皇)は「大化の改新」と呼ばれる体制の刷新に着手し、続く天武・持統天皇を経て、701年(文武天皇の代)、日本で初めての本格的な法典「大宝律令」が制定されます。
律令制度の土台を支える基本税は「租(そ)」でした。「租」を安定的に得るためには、民に貸し与える田んぼが必要であり、新たな耕作地の開発は、国家の発展のために欠くことのできない一大プロジェクトだったのです。
◇ニュータウン「こんでん村」
下之郷遺跡の発掘状況を伝える毎日新聞には「この集落は、大化の改新後、中央集権国家の確立を目指して建設した大津京と関連の深い当時のニュータウンと思われる」と書かれています。
下之郷は、古くは「根田(こんでん)村」と呼ばれていました。おそらく「墾田(こんでん)(新しく開墾した田)」に由来するものでしょう。
参考資料:宮﨑幹也「犬上川左岸扇状地における律令期集落の発生と展開」(『滋賀県埋蔵文化財センター紀要2』)、宮﨑幹也「大津宮新考-遷都にみられる地方社会の変質-」「下之郷の歴史」(下之郷の歴史編集委員会)
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