文化 写真でたどる ふるさと再発見 No.68

【甲良4500年の歴史をたどる 縄文編(1)】
■田んぼの下から大発見!
平成3年、圃場整備工事をしていた北落の田んぼの下から、土器の破片が見つかりました。研究者が調べた結果、何と、縄文時代中期のものであることがわかりました。今から4500年もの大昔、甲良町の辺りには縄文人が住んでいたのです。

■縄文時代の甲良町の辺りはどんな景色?
氷河期が終わり暖かな気候となった頃から始まる縄文時代は、他の時代と比べられないぐらい長く、約8000年から1万年ぐらい続きました。
その頃の甲良町の辺りは、鈴鹿の山々から流れ出した川が熊手のように広がり、草木が生い茂り、イノシシやシカなどが生息する原野であっただろうと想像されます。

■縄文人の主食は木の実だった
北落遺跡からは「凹石(くぼみいし)」(ドングリや栗などの木の実を割るときに使う石)、石皿(いしざら)(木の実を加工する作業台)、「磨石(すりいし)」(取り出した中身を粉状にすりつぶす石)、が大量に出土しています。
また、木の実を貯蔵していた穴も見つかりました。
これらの遺物から、当時の人々は、ドングリや栗のような木の実を加工しクッキーやパンのような形にして食べていたと考えられます。特に主要な木の実であった栗の木は、人の手で管理しないと維持できません。縄文人はすでに農耕技術を持っており、主食は木の実で、その補いとして魚貝や獸肉を食べていたと今では考えられています。

■なんと、列島規模での物流があった
北落で発掘された縄文時代の石鏃(せきぞく)(石の矢じり)は、長野県和田峠あたりで採れる黒曜石(火山岩のガラス質の石)で作られていました。
また、他の石鏃はサヌカイト(安山岩の一種)でできていました。この石も、この辺りにはなく大阪奈良の県境にある「二上山」で採れる原石をこの辺りで矢じりに加工して使っていました。数千年という長い時間の中で、縄文人の日常生活に必要な原材料は列島規模で流通していたのです。
参考資料:用田政晴氏「北落4500年の検証」 安土城考古博物館発行「扇状地の考古学」
ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書XXI-4 北落古墳群Ι

問合先:ふるさとプロジェクト(図書館)
【電話】38-8088【FAX】38-8089