- 発行日 :
- 自治体名 : 京都府亀岡市
- 広報紙名 : 広報かめおか 令和8年2月号(第055号)
■後水尾天皇と穴太寺
寛永文化を支えた一人である後水尾天皇〔正確には寛永六年(一六二九)に出家していますが、この呼称で統一します〕が、江戸前期の亀岡市域の文化に寄与したことはあまり知られていません。
後水尾天皇が、岩倉家出身*の一絲文守(いっしぶんしゅ)の寺庵に対し「大梅山」「法常寺」の山号・寺号を与えたのは、寛文六年(一六六六)であったと言われています。この十年後に当たる延宝四年(一六七六)頃、後水尾天皇は、今度は『穴太寺縁起絵巻』を描くよう絵師の狩野永納に命を下しました。
『穴太寺縁起絵巻』と言えば、当時の丹波地域を代表する絵巻物の優品です。これを描いた狩野永納とは、狩野山楽・山雪と続く京狩野派の三代目当主でした。公家や禁裏御所に出入りし、主に障壁画を仕事としていた彼が丹波国穴太寺の『縁起絵巻』を描いたのは、後水尾天皇からの下令があったためと自身の紀行文に記しています(『鳥跡記』)。
『穴太寺縁起絵巻』の詞書を担当したのは、後水尾天皇第十八皇子の盛胤法親王でしたから、この絵巻はまさに後水尾天皇の一族と文化ネットワークを通じて制作されたものと言えそうです。
※前回「愛宕家出身」と記したのは誤りです。訂正してお詫びします
