- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府池田市
- 広報紙名 : 広報いけだ 2025年4月号
■北摂太平記
◇「要害」としての西国街道
『太平記』は14世紀の鎌倉幕府倒幕運動から建武新政、南北朝内乱を描いた軍記物語です。この時代は中央から地方に至るまで各階層で対立関係が表出し、全国各地で戦争が繰り広げられました。日本列島を縦横に軍勢が移動し、戦術面では「要害」と呼ばれる峻険(しゅんけん)な城郭や交通の要衝が焦点となりました。その要害の一つが京都と西国を結ぶ西国街道(ほぼ現・国道171号に相当)で、池田市域近辺でも時に戦局を左右する戦闘が行われました。
元弘3(1333)年、後醍醐天皇による倒幕のげきに呼応した播磨国佐用荘(上郡町)の赤松円心に対して六波羅探題軍が発向、摩耶城(神戸市)・酒部(尼崎市)・瀬川(箕面市)で交戦しました。瀬川合戦に勝利し京都侵攻を試みる円心を討つべく幕府軍を率いた足利尊氏は、幕府を裏切り六波羅探題を滅ぼしました。鎌倉では新田義貞の活躍で幕府が滅亡し、後醍醐は建武新政を開始します。
人々の期待を背負った建武新政でしたが、武士たちを中心に不満が渦巻きました。建武2(1335)年に幕府残党の北条時行(最後の得宗・高時次男。漫画『逃げ上手の若君』主人公)が蜂起すると尊氏はこれを鎮圧し、鎌倉に居座って政権離反を鮮明にします。尊氏は後醍醐が差し向けた義貞・北畠顕家などの追討軍と交戦しつつ、鎌倉から京都そして博多へと転戦し、翌年に再び上洛して光明天皇を擁立します。光明に三種の神器を奪われた後醍醐は吉野に逃れ、ここに南北朝の対立が始まります。
尊氏が博多へ没落するきっかけは、箕面川を挟んだ豊島河原合戦での敗戦でした。義貞と対峙(たいじ)した尊氏の弟・直義は楠木正成の夜襲に遭い、戦わずして兵庫に逃れ海路、九州へ向かいます。九州で態勢を立て直した尊氏は京都をめざして湊川(神戸市)で正成を撃破、呉くれ庭は荘(宇保町)でも合戦が行われました。
◇池田氏の登場
室町期に池田を中心に勢力を張った国人・池田氏と池田城は、この呉庭合戦から歴史の表舞台に登場してきます(池田氏については「市史編纂だより」第47~50回参照)。摂津国御家人の芥川岡国茂は足利方の国大将・仁木義有に属して呉庭合戦に参戦し、「池田城」に数日間こもって夜詰めに当たっています(平国茂軍忠状)。この岡氏とともに「池田殿」の名が14世紀初めの勝尾寺(箕面市)の檀那(だんな)として挙がっており(「勝尾寺文書」)、既に池田氏は北摂地域の有力者であった可能性がうかがえます。
池田氏の存在が史料上明確になるのは、貞治2(1363)年の将軍足利義詮(尊氏子息)御判御教書です。ここでは池田親政が興福寺領の摂津国賀茂村(川西市)領家職の半済(はんぜい)分を預け置かれた事実が認定されています。半済とは、公家や寺社の所領もしくは年貢の半分を、兵粮(ひょうろう)料所・兵粮米として軍勢に割り当てる室町幕府の軍事政策です。したがって池田氏は幕府に属し、南北朝内乱を戦う中で成長していったのです。
(市史編纂委員会委員・松永和浩)
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