文化 市史編纂(さん)だより わがまち歴史散歩 Vol.174

■池田の相撲と酒造り
◇池田相撲
池田周辺は戦前まで相撲興行が盛んな所でした。享保ごろ(1716~1735年)から毎年8月ごろに山下・東畝野(以上現川西市)・愛宕(五月山)・久安寺・下川原(現伊丹市)などで花相撲(素人相撲)がありました。まれには大相撲の力士を加えての興行もありました。そのため多くの力士を輩出しています。市内には力士の墓や碑が多数現存しています。大広寺の常盤山吉右衛門、西光寺の猪名川政右衛門、市立桃園墓地の錦竜田右衛門などです。中でもとりわけ有名なのが猪名川政右衛門です。

◇猪名川政右衛門
池田の酒造家多田屋に生まれ、本名を治郎吉といいます。多田屋では猪名川という酒銘の酒を作っていました。17歳で大坂の力士藤島森右衛門に弟子入りし、初め猪名川治郎吉のしこ名をもらいます。池田の酒造家大和屋がパトロンとなりました。明和4(1767)年の大坂春場所における千田川吉五郎との勝負は年内に浄瑠璃『関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)』に脚色されています。引退後は藤島の後継者となりました。『摂津名所図会』の挿絵に「猪名川」があり、ここには川畔の茶店で休む力士の立ち姿が描かれています。当時の読者は相撲取りから「猪名川」を連想できるくらい彼は全国レベルで有名だったのです。

◇池田相撲と酒造り
池田出身の力士に天保14(1843)年に没した錦竜田右衛門がいます。3年後の弘化2年8月に池田相撲の行司いろは友右衛門を興行人として松倉酒場明屋敷で追善相撲が興行されました(『稲束家日記』弘化2年8月13日条)。また『相撲今昔物語』(『新燕石十種』第四)には江戸時代の力士が列挙されています。これによると藤島部屋には池田・伊丹・灘といった酒所出身の力士がいます。こうしてみると、力士と酒造業に深い関係があるようです。

◇大坂相撲と浜社会
池田から大坂に目を移すと、回船や川船の船荷の揚げ降ろしをする仲仕から力士になった者が多いことに気付きます。例えば朝日山四郎右衛門という力士は本名を住吉屋四郎右衛門といい、もとは中之島や堂島の米仲仕です。若い頃からもめ事の仲裁を得意とし、力士引退後は仲仕のまとめ役の傍ら相撲の興行にも関係していたようです。町の顔役に成長すると侠客として根津四郎右衛門を名乗るようになります。根津が四天王寺庚申堂に寄進した絵馬には重い米俵を軽々と扱う曲持の芸の様子が描かれていました。一方、彼の葬儀には大坂中の力士が参列したといわれています。絵馬からは仲仕の頭としての側面が、葬列の様子からは相撲界の顔役としての側面がうかがえます。
大坂には米仲仕・浜仲仕・沖仲仕・四十物(あいもの)仲仕・炭仲仕・土仲仕・石仲仕などさまざまな荷役労働者がいました。中之島・堂島・靭(うつぼ)・雑喉場(ざこば)・東浜(東横堀)などが彼らの活動の場であり、こうした浜社会から多数の力士が誕生します。大坂場所では「市場」「ざこば」「うつぼ」「堂島浜」と記したのぼりが林立したのはこのためです。

◇酒蔵と浜社会
日本酒の原料は米です。大量の酒を醸造する酒蔵では多数の米俵を運び込まなければなりません。酒蔵で働く人を蔵人といいますが、彼らも仲仕と同じような仕事をこなさなければなりませんでした。仲仕にも蔵人にも米俵など重い荷物を担ぐだけではなく、それを巧みにコントロールする技術が求められました。こうした技と力を兼ね備えた若者の中から力士が育ったのです。

(市史編纂委員会委員・野高宏之)

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