- 発行日 :
- 自治体名 : 兵庫県赤穂市
- 広報紙名 : 広報あこう 2025年6月号
■再び世に出た堀部安兵衛の書状と、新たに出た養子一件書付
令和6年(2024)11月、今まで行方不明だった堀部安兵衛(ほりべやすびょうえ)の遺書(元禄15年11月20付、親類宛)が豊岡市立歴史博物館で展示されました。そして何と驚くことに安兵衛が堀部家に養子に入った経緯を綴った「養子一件書付」も併せて展示されたのです。
遺書は安兵衛の生まれた越後新発田(しばた)藩の家中にある自身の親戚たちに宛てたものです。
◇遺書について
遺書は「主君の切腹後、吉良上野介を討たんと江戸家老に相談したが埒が明かないので、赤穂に行ったのだが、大石内蔵助に説得されて他日を期した。しかし、なかなか討入りをしないので、分裂しようとして京都に隠棲している内蔵助に談判に赴いたところ、浅野大学の処分が決まったので討入りに決した。そして江戸に帰ってきた。このことはゆっくりお話ししたいのだけれども、その暇もなく、佐藤条右衛門(さとうじょうえもん)は信頼できる者なのでこの手紙を預けることにして、従弟の河村忠右衛門(かわむらちゅうえもん)に届けるように頼んだ。以後は手紙を書かないので、これが今生の暇乞いと思ってほしい」ということが書かれています。
この遺書は知られているもので、『赤穂義士史料』下巻に翻刻されている文書です。
◇養子一件書付
そして、今ひとつの「養子一件書付」は中山安兵衛が堀部家に養子に入った経緯を綴った覚書で、筆跡から安兵衛のものと判断されました。
これには写本があって、それを新発田の郷土史家である三扶誠五郎(みぶせいごろう)氏(1886~1963)が翻刻して刊行しましたが、今回、その原本が初めて確認されたのです。
「書付」は厳密に言うと養子に至る経過でやりとりした書状の留(控)です。
堀部弥兵衛(ほりべやひょうえ)が、高田馬場の喧嘩で名を馳せた中山安兵衛に知人を介して初めて会って一目惚れしてしまったことや、その後も数回安兵衛に会ったこと、養子縁組のことなどが記されています。
弥兵衛は安兵衛を見て養子にしたい思いが募りに募りました。弥兵衛は安兵衛の剣の師匠である堀内源左衛門らに働きかけて安兵衛を婿養子にと申し入れますが、安兵衛は「他からも何度かそういうお話をいただいているが、中山姓を捨てられないのでお断りしてきた」と言って弥兵衛の申し入れをも断りました。
それでも弥兵衛は諦めません。弥兵衛はとうとう中山姓を受け入れます。そして、たとえそれが主君の許可を得られなくても父子の契りを交わした以上、間違いなく我が養子とするとまで申し入れたのです。更に源左衛門らの力を借りて、漸く安兵衛を養子にすることに成功します。
安兵衛は源左衛門の忠告もあって弥兵衛に申し入れをしました。曰く「私は本名の中山を断絶させたくないと言ってきました。しかし、このたびあなたのご懇切な計らいで、このような結果となりました。近日、養子の願書を提出することと思います。実家の親類書も差し上げたことでもありますし、この上は堀部を名乗りたい。堀部でも中山でも思し召しのままに」と。
そして、願書は提出されましたが、浅野内匠頭(長矩)の意向は堀部でも中山でも勝手次第にということで許可され、中山安兵衛は結局「堀部安兵衛」となりました。
実はこの経緯には別の証言もあって「子供を作って、二男に中山姓を継がせればよい」と説得されたともいいます(「波賀朝栄聞書(はがともひさききがき)」)。
結局、安兵衛は弥兵衛のゴリ押しに負けたようです。
◇伝来について
この2点の史料は安兵衛の母方の従弟である新発田藩士の坂井家に伝えられ、明治になって安兵衛の母方丹羽家に譲られたようです。しかし、いつしか丹羽家から離れて、新発田藩医の末裔で、宮内省の侍医頭などを勤めた内科医の入澤達吉(いりさわたつきち)氏(1865~1938)の手に渡りました。しかし、入澤氏の死後からどうなったのか分からなくなっていました。
義士史料の行方は昔と今では所蔵者が変わっていて、現存が確認できない史料が多いのも現実です。
今回、こうして行方不明だった義士史料がまた、日の目を見ることができるようになったことは喜ばしいことだと思います。
佐藤(さとう)誠(まこと)(赤穂大石神社非常勤学芸員)