- 発行日 :
- 自治体名 : 兵庫県市川町
- 広報紙名 : 広報いちかわ 2025年6月号
感性豊かな人・まちづくりをめざして
◆清水喜市さんと部落差別
▽部落差別解消に傾けた情熱
かつての兵庫県の同和教育読本「友だち」をご存じでしょうか。昭和・平成前期にお生まれの方は、小中学校でこの「友だち」を通して同和教育を受けられた方が多いのではないでしょうか。中学校版の中に「水色の星」という教材で紹介されていたのが、清水喜市さんです。清水さんは、現在の市川町の人権文化の礎を築いた人物です。次の一節は「水色の星」(中学校平成五年版)からの引用です。
《故郷へ》
下宿の窓を打つ雨は、初冬の冷たさを感じさせるものがあった。喜市は、火の気のない部屋で窓を流れる水滴を見つめ、寒さに身を縮めながら故郷の村を、人々を思った。
今、自分が村から遠く離れた横浜で英語を学んでいることと、迫りくる寒さと貧困と差別の中で苦しみもがく仲間たちのくらしとを、どう結びつけたらいいのか。果たして、このまま英語専門学校に学び、故郷から離れた地で差別とかかわりのない生活を送っていていいのであろうか。(中略)
喜市は自らが受けた不当な差別から逃れ、ともに過ごした仲間から離れ、自分一人の幸福を求めることは許されないと思った。喜市は学業半ばにして故郷に帰る決意をした。社会のゆがみを集中的に受けている故郷の人々とともに歩もうと心に誓ったのだ。(後略)
《水平社》
故郷に帰った喜市は、学校で悲しい思いをさせられ、厳しいくらしに打ちひしがれる村の人々と手を取り合って、差別をなくしていこうと考えた。そして、差別に悩み、苦しむ人たちが力を一つにし「人間みな平等」という社会を実現していく闘いを始めた。
ちょうどそのころ、全国各地で、差別と闘う人たちが手をつなぎ始めていた。一九二二年(大正十一年)には、京都岡崎公会堂で、部落解放を訴える「全国水平社創立大会」が開催された。喜市は三十人余りの仲間たちとともにこの大会に参加した。それから喜市は、「もう泣き寝入りするときではない。今こそわれわれの手で部落を解放するのだ。」と、郡内外を問わず説いて回った。
郡水平社創立大会の日。
「われわれは、決して無理なことを望んでいるのではない。うまいものを食べ、裕福な生活をしたいのでもない。われわれの子どもを教室の中で分けへだてなく座らせたい。運動場の片隅にかたまっている彼らを、みんなといっしょにのびのびと遊ばせてやりたい。そして、大きくなったら役場にも勤めさせたい。教壇にも立たせたい。安定した仕事にもつかせたい。そして、心になんのわだかまりもない人間になってもらいたい。われわれの望みは、ただそれだけだ。あまりにも当然の要求にすぎないのだ。」
喜市は、静かに語り終えた。二百人をこえる郡内の仲間たちの熱い拍手が、会場となった村のお寺の本堂に響き渡った。郡水平社の代表者に選ばれた喜市は、郡内はもちろん、丹波や但馬なども歩き、兵庫県水平社の結成にも参画した。
※本文・挿絵ともに兵庫県教育委員会「友だち」より
《受け継がれる思い》
その後の清水さんは、差別が貧しさをつくり、貧しさが差別であると考え、村の生活基盤の立て直しに取り組みました。住宅の改善や道路改修工事、排水溝や用水路の建設など様々な事業に着手し、人々の生活基盤を整備していきました。
また、自らが苦しい体験をした教育を改善するために大きな力を注ぎました。人と人がお互い大切にし合う心を、子どものころから育てておかなければならないと考えたからです。当時、郡内で最も立派な校舎を新築し、次代を担う若い人たちの育成に努めました。
このように、清水さんは様々な困難を乗り越え、一つ一つ課題を解決し、部落差別解消の取組を進めていったのです。
清水さんの思いは、その後も様々な人々に受け継がれ、約百年の時が過ぎた今もなお、市川町の人権文化を誇れる町としての様々な取組に活かされています。これからも清水さんの部落差別解消に傾けた情熱を受け継ぎ、引継いでいかなければなりません。
なお、市川町では、「市川町部落差別の解消の推進に関する条例」を本年度中に制定することをめざしています。
問合せ:生涯学習課 人権教育啓発係
【電話】26-0001