文化 わたしのまちの文化財 vol.218

■文献史料からみる中世の粉河祭

粉河祭は、粉河地域を鎮守する「粉河産圡神社」の祭礼で、そのはじまりについて定かではありません。
一説によると粉河寺を創建した大伴孔子古の子、大伴船主が平安時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂に従い奥州の戦役で手柄をたて、祖霊の神を揚げて凱旋した時の様子を伝えたのが粉河祭の最初と伝えられています。
粉河寺が天正の兵火に遭い、藤堂高虎が粉河祭を復興させて以降、粉河祭の渡御は、「栗栖の一つ物」、童子が衣冠束帯姿で騎乗した「右馬頭」及び「五位」、これらに付き従う甲冑姿の「弓鉾(ゆぼこ)」、「随兵」、「御幣および児」、「禰宜」で構成され、現在まで続いています。
近世以降の粉河祭は『祭礼次第』などの古文書などから、詳細な様子がある程度確認できますが、それ以前の粉河祭については、古文書に記されたわずかな情報から推測するしかありません。
粉河祭の記述は、南北朝時代の古文書から確認できます。当時は粉河寺六月会と呼ばれ、毎年6月18日、粉河寺が支配していた紀の川沿いの村々から、村人たちが参列して行われていました。しかし、粉河寺領のすべての村が参加していたわけではなかったようです。文明9年(1477)には、現在と同じく神輿が出ていたことが伺えます。六月会にはさまざまな取り決めがあったようで、参加するためには費用を負担する必要がありました。現在の「右馬頭」・「五位」のことであると考えられる馬頭についてみてみると、馬頭を勤めた東村(現紀の川市東野周辺)は康永3年(1344)に頭役を勤めるため土地を抵当にして費用を確保しました。応永2年(1395)では、馬頭役の者は一貫五百文の馬頭料を負担することとされています。また、応永15年(1408)に馬頭を勤める弥次郎法師の馬頭料代わりに姫石女が惣村へ畠を渡すなど、多くの費用を負担してまで馬頭を勤めていたことがわかります。江戸時代になると東村は祭礼に参加しておらず、現在では、「右馬頭」・「五位」は「松井座」「川原丹生谷座」「中津川座」が交代で勤めています。
今月19日から、歴史民俗資料館で修理・整備した粉河祭の祭礼具を紹介します。古くから続く粉河祭に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

■華岡青洲講演会
日時:12/7(日)10:30~
場所:道の駅青洲の里
講師:土手健太郎氏
先着:50人(申込不要)

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】内線74202(生涯学習課内)