文化 金剛峯寺本坊大主殿

昨年1月に総本山金剛峯寺を構成する11棟の建造物が金剛峯寺本坊として重要文化財に指定されました。今回は、そのうち大主殿について簡単に紹介していきたいと思います。
大主殿は、金剛峯寺本坊を構成する建物群の代表的な建造物になります。文禄2年(1593)年に豊臣秀吉の母の菩提を弔うための剃髪寺として創建し、その後、青巌寺に名前を変え、明治2年(1869)に学侶方、行人方が合併するまで、学侶方の中心寺院として、合併後は金剛峯寺として、高野山全体の本坊としての役割を果たしてきました。
大主殿は、創建以降焼失と再建を繰り返しており、現在の建物は、文久2年(1862)に再建されたもので、東西53.8m、南北28mの破格の規模の建造物です。さて大主殿の中をみると、南西隅に「柳の間」がありますが、ここは「秀次自刃の間」ともいわれています。秀吉の養子で関白を務めた秀次が自刃したのは、文禄4年(1595)年のことであり、現在の柳の間では行われていないのですが、何故このように言われているのでしょうか?
大主殿は、創建以降、火災により寛永11年(1634)、延宝5年(1677)、文久2年の3回再建されています。金剛峯寺には、文久2年の再建(万延元年(1860)焼失)前後の間取図が残されていますが、延宝の再建と文久の再建の間取は一致します。さらに、大主殿の襖絵をみると、大広間と梅の間の襖絵は、斎藤等室(1588-1668)によるもので、再建記録から判断すると襖絵は寛永の再建の大主殿のに伴うものが残されていると考えられます。恐らく火災の際に外して持ち出し焼失を免れたのでしょう。これらの襖絵が違和感なく収まっていることからも、再建にあたっても間取が変化していないと思われます。
大主殿は、創建から何度も建て替えられていますが、再建の際にも伝統的な形を変えることなく昔からの姿を現在まで伝えています。「秀次自刃の間」の伝承があるのも、創建時から間取りが変化していないことを物語るものの一つでしょう。
大主殿は、本山の本坊にふさわしい、破格の規模と、優れた意匠をもつ建造物であるのみでなく、江戸初期の本坊寺院の姿を今に伝える建造物としても価値のある建造物です。

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