- 発行日 :
- 自治体名 : 島根県安来市
- 広報紙名 : 広報やすぎ「どげなかね」 令和7年5月号
■能義地区のイチオシ!
今なお残る豊かな田園の礎~穴川のトンネルと原重兵衛~
能義地区を中心に広がる能義平野。ここが能義平野と呼ばれるようになったのは、明治22年(1889年)に施行された町村制によって能義村ができた後のことです。
この名称が使われる以前、赤崎町・月坂町周辺に広がる田園地帯は「赤崎田んぼ」と呼ばれていました。赤崎田んぼは約50ヘクタール(アルテピア約100館分)の面積があったといわれています。この地は、江戸時代末期までは水害が多く、特に赤崎町と月坂町の境は水はけが悪い沼地のような場所で、農作が困難でした。
そうした状況から、年々住民が減っていく中、村のため尽力した原重兵衛という人物がいました。重兵衛は弘化3年(1846年)、村が属する広瀬藩に嘆願し、田の排水工事を行いました。しかし、周囲より標高が低い土地であることから、水はけが悪いままでした。
そこで、重兵衛や村のまとめ役たちは嘉永元年(1848年)、水はけの悪い地域から吉田川まで、丘陵にトンネルを掘り、水路(穴川)を整備しました。トンネルは長さ約54mで高さと幅はそれぞれ約1.8m、トンネルからつながる水路は長さ約270mとなる大工事に。そのおかげで、その後水害はほとんどなく、あっても被害は軽く済むようになりました。このトンネル・水路は舗装等整備されながら残っており、今なお実り豊かなこの土地を支えています。