文化 津山の歴史 あ・ら・か・る・と

■城東地区の瓦屋小路
~名前に秘められた物語~

津山城の東側、出雲往来に面した東西約1.2キロメートルの範囲が「城東重要伝統的建造物群保存地区」です。このエリアには出雲往来に直角に交わる13の小さな道(小路)があります。今回はこの小路のうち、一番東側の「瓦屋小路」の名前にまつわる物語を紹介します。
明治時代の郷土史研究者 矢吹正則はこの小路の由来について「森氏の瓦師、その近辺に居住し、この名がある」と記しています。小路の付近に瓦師が住んでいたため、この名前が付けられたようです。では、その瓦師はどのような人物だったのでしょうか。
昭和時代に、津山科学教育博物館(現在のつやま自然のふしぎ館…山下)館長森本謙三と津山朝日新聞社記者小谷善守の調査によって、その瓦師の名前が「赤染部(あこべ)九郎右衛門」であることが判明しました。赤染部の瓦製作場と屋敷は、瓦屋小路の北にある旧東中学校跡地(上之町)辺りから、東側にあったようです。
この辺りは良質な粘土が取れ、瓦の製作には都合の良い場所だといわれています。この場所からもう少し東の総社川崎線(国道53号線から沼方面へ抜ける道路)建設のための事前の遺跡調査で、粘土を採掘した大きな穴(写真1)がたくさん見つかっており、赤染部の屋敷・製作場の周辺で粘土が採掘されたことが分かっています。
赤染部九郎右衛門は、慶長8年(1603)に初代津山藩主 森忠政が美作に入った時に、美濃から津山へ移住したといわれています。津山城築城時に瓦の製作を任せられたようで、その功績により祝儀金10両、30人扶持(主君から家臣に支給される米)と瓦工場5畝を授かったと伝えられています。赤染部の家に伝えられている文書によると、九郎右衛門から数えて4代目の理兵衛は松平初代藩主宣富(のぶとみ)から呼び出され、引き続き、城の御用瓦師を命じられています。
「瓦屋小路」という名前から、この辺りに瓦屋がいたという想像は付くかと思います。しかし、その瓦屋を深く探ると森・松平両家に代々仕えた瓦師の拠点があったことを知る人は少ないのではないでしょうか。※写真は本紙をご覧ください。

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