文化 〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

■岩国に入封(にゅうふう)した吉川(きっかわ)広家(ひろいえ)(2)
新施設を建造するための資材調達
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
柳井小学校の南方約100mに「西蔵」があります。そこでは「金魚ちょうちん」づくりや「柳井縞じま」の機織(はたお)り体験ができ、郷土文化の継承・発展に寄与しています。その西蔵は、遠崎の鍵屋(かぎや)の蔵を解体して移築した建物です。鍵屋は江戸時代に俵物(たわらもの)問屋(どんや)でした。
俵物とは、干しアワビ、干しナマコ、干しフカヒレを俵に詰めたものです。中国へ向けて長崎の出島から輸出をしていました。俵物問屋は繁盛し、幾つもの蔵を所有していました。ところが、徳川幕府の崩壊によって出島での貿易が途絶すると、鍵屋の蔵は不要になってしまいました。そこで柳井津の佐川醤油店が鍵屋の蔵を買い取って解体し、その資材を柳井に運んで西蔵を建てたのです。
吉川広家が岩国城や諸施設を短期間のうちに建造したことをお知らせするのが今回の本旨ですが、なぜ西蔵の話を持ち出したのかというと、日本の木造建造物は解体・再建が容易であることをまず確認しておきたかったからです。
さて、山上に岩国城を建て、麓の横山に御舘(おやかた)などの諸施設を短期間で建造するには、多くの建築資材が必要でした。そこで方々にある立派な建物を解体して、資材を集めました。とくに伊陸の高山寺とその塔頭(たっちゅう)(関連する子寺)を解体して、資材を岩国へ持ち去ったことがよく知られています。室町時代の高山寺は周防国の安国寺であり、大内氏の資金援助を得て大伽藍(だいがらん)を擁し、常光院(じょうこういん)や祇樹院(ぎじゅいん)など約20にも及ぶ塔頭を抱えていました。大内氏の庇護の下にあったそれらの寺の建物を岩国へ運び去ったのです。残されたのは開山堂(かいざんどう)だけでした。
先に小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)軍が伊陸に攻め込んだ時も、悲惨なことが起きました。伊陸の住民が小早川軍に抵抗したので、弾圧されました。さらに吉川広家が岩国に入ってきた時にも、高山寺と塔頭群を解体して建築資材を運び去ったのです。広家が属する毛利家に反抗した伊陸の住民に対して、抵抗が無駄であることを見せつける目的があったからと推測されます。

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