- 発行日 :
- 自治体名 : 徳島県徳島市
- 広報紙名 : 広報とくしま 2025年1月15日号
-藩船(はんせん)を漕(こ)いだ水主(かこ)の町-
ネギで有名な沖洲(おきのす)は、江戸時代には藩船の漕ぎ手、水主(かこ)(かこ)の屋敷地(やしきち)が集中していました。江戸時代の初めの絵図を見ると、南北の細長い地形で、新町川と別宮川(べっくがわ)(吉野川)により形成された、まさに沖に浮かぶ洲のような場所だったので、沖洲(おきのす)と呼ばれるようになったと思われます。
沖洲(おきのす)は、元和(げんな)3(1617)年に紀伊国和歌山から家来16世帯とともに元浦に移住してきた太田太郎次郎(おおたたろうじろう)が開発したとされます。太郎次郎(たろうじろう)は殿様に招かれましたが、武士でなく農民として蜂須賀家(はちすかけ)に仕えました。殿様の日記には、寛永13年(1636)年、2代藩主蜂須賀忠英(はちすかただてる)に大きな生鯛を献上したと記されており、殿様とは良好な関係が続いていたのでしょう。その子孫は沖洲浦(おきのすうら)の庄屋を務めました。
沖洲(おきのす)の転機は、寛永17(1640)年の水軍基地の移転です。基地は常三島から安宅(あたけ)に移され、水主(かこ)の屋敷も住吉島(すみよしじま)から安宅(あたけ)と沖洲(おきのす)に移されました。北沖洲(きたおきのす)は水主(かこ)の屋敷地(やしきち)として整備され、後には170軒もの屋敷が整然と立ち並びました。現代でいえば北沖洲(きたおきのす)は新興住宅地で、南沖洲(みなみおきのす)は従来からの漁業集落(しゅうらく)として展開していきました。
水主(かこ)屋敷地(やしきち)は間口が5間・奥行が15間の長方形なので、俗に「短冊屋敷」と呼ばれました。徳島城下は、1間が6尺5寸なので、屋敷の広さは約88坪にもなり、道路に面して平屋造(づくり)の母屋を建て、その奥は菜園として利用しました。
水主(かこ)は藩船を漕ぐのが仕事なので日常的に鍛錬を怠りませんでした。配偶者も体格の立派な方(かた)を選んだといわれますから、自分たちの職務によほど自信と誇りを持っていたことでしょう。
現代では様変わりし、往時(おうじ)の名残を留め(とどめ)ていませんが、仕事にこだわりを持つ水主(かこ)の世界があったのです。
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