文化 大島八幡神社秋季大祭 守り継がれる島の誇り

新居大島で10月11日(土)、12日(日)、秋祭りが行われ、静かな島に祭りばやしが響き渡りました。

黒島港からフェリーで15分。島民80人ほどの小さな島では、新居浜太鼓祭りよりも一足早く、秋祭りが行われます。近年は、少子高齢化などにより島民の数が減少。祭りの存続が危ぶまれながらも、島民の知恵と頼もしい助っ人の力で、今日まで守り継がれてきました。

■島独自の秋祭り
同じ市内でありながら、主役は太鼓台ではありません。上之町、中之町、西之町の3つの地区が、「夜宮(よみや)」と呼ばれる屋台2台、「明神(みょうじん)さん」と呼ばれる小型の屋台1台をそれぞれ所有。伊勢音頭を朗々と響かせながら、島を練り歩きます。
大島はかつて、西条藩最大の港町として栄えました。その繁栄ぶりは「金島(かねじま)」とうたわれるほど。瀬戸内海沿岸をはじめとする周辺各地との交易が盛んに行われ、島独自の文化も生まれました。秋祭りも、その一つ。江戸時代には既に記録が残されており、当時からほぼ形を変えることなく、継承されてきました。

■幻想的な宮出し
初日は、夜宮と明神さんが島内を巡る「宵宮(よいみや)」。午後5時になると、西之町地区の総代が年番ちょうちんを手に、上之町地区の夜宮を迎えに行きます。夜宮は海岸沿いをゆっくりと進み、他の2台と合流。大島八幡神社の石段下の広場に集結します。
関係者が本殿に向かうと、神事が始まります。以前は3台とも127段の石段を上がり、神事に参加していましたが、今は広場で静かに宮出しの時を待ちます。
夜のとばりが下りる頃、ちょうちんをつけた3台が出発。列を成し、狭い路地を練り歩きます。真っ暗な町並みが柔らかなオレンジ色に染まり、幻想的な光景に。祭りの見どころの一つです。
3台は50分ほどで御旅所に到着。1日目が終わります。
2日目は、海の安全と豊漁を願う「船御幸」。海運業で栄えた大島の信仰と伝統を体現する神事です。
初日とは雰囲気が一変。神社での御霊(みたま)移しの後、島民らが神輿(しんよ)を担ぎ、威勢の良い掛け声を響かせて港へ向かいます。神輿は漁船に乗せて海上へ。陸に降り立ち、御旅所での神事と島内練り歩きの後、祭りは幕を下ろします。

■頼もしい助っ人
かき手の中には、島民ではない若者の姿も。明神さんのかき手たちは、そろって長野太鼓台(船木)の衣装を身にまとっています。
中心となっているのは、大島出身の近藤一太(かずひろ)さん。10年以上前から毎年、仲間を連れて祭りに参加しています。「自分一人ではできん。一緒に来てくれるのがありがたいね」。古里の伝統を共に支えてくれる仲間への感謝を口にします。
「あの子らが来てくれるから、何とか3台出せとる」。島民たちは心強い助っ人の登場を歓迎します。「準備段階から手伝ってくれる。みんな祭りの時期になったら、『大島の子』になっとるよ」

■できない理由より、存続できる方法を
大島八幡神社宮司 矢野 秀綱さん

人口減少と島民の高齢化が進む大島で、先人の残した文化を後世につなぐにはどうすればいいか。「人手が足りないこと」をできない理由にしてしまいがちです。だけどそうじゃなく、人の手を借りてでも、できる方法を考えるのが大事だと思っています。
まず変えたのは、祭りの準備です。これまでは自治会ごとにそれぞれ屋台を組み立てていましたが、3台順番に、みんなで組み立てるようにしました。いただいた御花も一まとめに。自治会単位で使わず、祭り全体の経費をまかなうようにしています。
目指すは参加型の祭り。島外からのかき手も積極的に受け入れています。昨年からは、懇親を深める食事会を、地区ごとではなく島全体で行うようにしました。島外の人と島民が和気あいあいと交流してほしいとの思いからです。いろんな出会いが生まれることで、1+1が2ではなく、3にも4にもなって、祭りが盛り上がると期待しています。

■歴史に触れる
大島の祭礼には、現在運行されている夜宮と明神さんの他、太鼓台やお船も出ていました。
西之町太鼓台は、新居浜の太鼓台より小ぶりなもので、飾り幕は一枚物でした。この飾り幕は、今も地元で大切に保存されています。
お船は、陸を運行する船の形をした屋台で、大島では昭和20年代まで運行していました。船御幸の際は、神輿の船頭をして、船歌(勝どきの歌)を歌いながら町中を練り歩きました。
安政3(1856)年には祭礼に関する定め書が出され、船御幸における屋台の乗船順などが定められました。

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